津田 広志、竹田 啄

学びの行き先は「未知」 フリースクール・ジャパンフレネ代表 木幡寛氏に聞く

ジャパンフレネ訪問

 東京の目白駅をおり、学習院大学を背にして目白通りを15分くらい歩き、左に折れて坂を下っていく。豊島区の下町にある商業区域のマンションの2Fに、ワンフロアのフリースクール「ジャパンフレネ」があった。
 室内の壁際には、参考図書や実験器具がところ狭しと置かれていた。1つの丸いコーヒーテーブルの上には、なぜかエリック・ホッファーの自伝『構想された真実』が置かれている。ホッファーは、アメリカで湾岸労働者をしながら日記、哲学エッセイを書き、その鋭い社会批評と人間観察、また彼の生き方そのものが、日本にも大きな影響をあたえた人だ。もしホッファーのように、社会の過酷な場所でも働き、生き、旅をし、考え、表現する、そういう自立的人間と「ジャパンフレネ」の学びが関係するならば、すごぶる面白いインタビューになるだろう。
 フレネとは誰か、またこの代表の木幡寛(こはたひろし)氏とはどういう人か、興味ぶかいインタビューがはじまった。

木幡寛

 「私は、公立の小学校の教員からスタートし、3年間勤務した後、数学者の遠山啓氏の推薦で明星学園小中学校に6年間勤務しました。その後、自由の森学園中高等学校の設立に関わり、10年間現場にいた後、校長3年を務め、学校の限界を感じ退職。その後20年間フリースクールジャパンフレネを運営してきました。フレネ教育を日本で実践しているところは、埼玉県のけやの森学園幼稚舎・保育園と、大阪府の箕面こどもの森学園、ジャパンフレネの三カ所ですがジャパンフレネ以外はいずれも規模が大きく、フレネ教育の本流を進んでいるのはジャパンフレネだと評価されています。かつて学校は、国民を育成する文科省の制度と、戦後民間教育のどちらかに組みする構造の中で論ぜられていましたが、どちらも大人が作ったルートの中に子どもを乗せるという意味では同じことです。それで本当に子どもの夢や希望を実現できるのか疑問です。現在は、文科省と民間教育を含めた学校と、学校以外の学びの場という構造の中で教育は論ぜられるべきです」

――― 現在の学校では夢や希望はかなえられない、と。もう少し詳しく聞かせてください。
 「たとえば、ヨーロッパの教育潮流におけるシュタイナー教育、モンテッソーリ教育、イエナプランなどが、既存の学校というシステムの中で存在している限り、子どもの疑問や発想に応えることは難しいでしょう。学校には、既存のゴールがあり予定調和に終わるというシステムがあります。その中で子どもの疑問や発想を実現することに限界があるからです。学校のシステムでは、解決のための要素をインプットすれば回答が出てくるブラックボックスがあり、それを逸脱することはできません。
 そうではなく、学びとは子どもの疑問や発想から生まれてくるのが本流です。予定調和がなく、どこへいくかわからない学び。あるインプットをしたらある結果がたまたま出てきた。なぜそうなったのか?それを追求していくことが面白い学びなのです」

――― それは、学びの偶発性、即興性を大事にされているということでしょうか。
 「そうかもしれません。abc を入れたらdがたまたま出てきた。たまたまcを入れたらdになった。なぜそうなるのか考える。学び以前に考えるというレベルがなければいけません。既存の学校は、学ぶべきことが決まっています。教科書をつかってアクティブラーニングはできません。学ぶ前に考える、疑問をもったり興味関心をひろげていく。それは教科書の中にはありません」

――― 子どもの主体性を育てるということはどういうことですか?
 「主体性を育てる、それは言い換えれば、「楽しい」ということの追求です。疑問が生まれる。それをシンキングマップ的に発想を広げ、繋がるところは繋げていく。違う脈絡や違う流れが見えてくる。楽しいことは誰にも止めることはできません。楽しいことの追求の結果生まれてくるのが、主体性というものなのかもしれません」

散歩の時間、行き先は未知

――― たとえば、どういう授業をなされているのですか?
 「金曜日には、散歩の時間があります。ハイキングに行ったとき小2の子どもがぼくに問いかけました。「木幡さん、これってオトシブミの卵が入っているんじゃない?」。そこから、探究がはじまります。オトシブミは『ファーブル昆虫記』に載っていたそうです。それでみんなでその昆虫記を読む。ファーブルはどこの国の人なのかという疑問が起きる。調べるとフランスだとわかる。じゃあ今度は、フランスの地勢や気候はどうなんだとなる。フランスの北と南は違いますよね。南は砂漠の風シロッコが吹く。日本のオトシブミとフランスのオトシブミは違う。授業はこんな風にして進み、その行先は未知なんです」

――― 興味関心に導かれて外へでていく感じですね。
 「写真を読むという授業をよく行います。例えば写真集『トランクの中の日本』にある写真・・・。直立不動の少年がいる。いつ・どこで・誰が・何を・どうしたか・・・。長崎原爆直後、弟を背負って焼き場に立つ少年でした。ここから長崎行きが決定し、隠れキリシタン・生産量第2位の長崎のジャガイモ・佐世保バーガーなどを考えていく長崎プロジェクトチームが生まれました。それぞれのプロジェクトを追求していく中で、長崎在住の絵本作家・長谷川集平さんとつながり、交流会を行うことが決定する。また、懇意にしている寺脇研さん(元文部官僚、京都造形芸術大学教授)から連絡が来て、長崎の女子大生のボランティアがついてくれる。こんな風にして、世界がどんどん広がっていくのです」

――― 学ぶことが旅に近いですね。誰に出会い、なにが起きるかわからないのが面白い。
 「飛ぶ教室」なんですね。昔、ツヴィント学園というスクールがデンマークにありました。風力発電を起こし、それを町に供給し利益を得てボロバスを購入、修理します。そのバスに皆が乗ってあちこち旅をして、トラベリングスクールになっていく」

フレネ教育とは?

――― フレネ教育とはそもそもなんでしょう?
 「はじめ、セレスタン・フレネ(1896〜1966)は伝統的なフランス階級社会の教師でした。フレネは、対独戦での毒ガスで身体に障害を負いました。伝統的な教え主義ができなくなったフレネは子どもを散歩に連れていき、子どもの発想や疑問に授業をゆだねました。自由作文という名の教材を互いに発表し、またそれを教材にしました。その文章を南フランスから北フランスへ送り、互いに交流する。さらに子供が書いたものを印刷するための印刷所を作ってしまう。フレネ教育は実践スタイルなんです。ヨーロッパの多くの教育潮流は研究スタイルから生まれてきましたが、子どもの発想や疑問を方法化していったのはフレネ教育だけです」

――― 自由作文という制度が確立させたことが重要ではなく、自由に作文を書かせた行為が大事ですね。
 「そうです。私がいいたいのは、自由作文やっているからフレネ教育という訳ではないということです。たまたま散歩していて、子どもの感性で自由に作文したものを教材にして共有したのです。識字や技術は、後からいくらでもついてきます。
 教室はびっくり箱です。定型はない。何が起きるかわからない。数学だって、1/2+1/3を考えるとき、なぜそういう学習をするのか考えさせないまま通分や約分倍分を教え、分母を6にして計算することを強制します。通分することを教えるために「やらせの授業」がはじまります。しかし、学びとは、この分母の違いや足し算をどうやって解決するか、問題提起を子ども側からすることであり、それを自発的にするということです」

――― ここは何名くらいの学びの場で、どういう支援をされていますか?
 「人数は10人限定です。小学生を受け入れ、しかもオルタナティブな授業を行うフリースクールは東京にはほとんどありません。障害を持った子どもを引き受ける所も少ないのが現状です。現在生徒は、週5回の子どもが10名、週2回の子どもも10名、全部で20名いますが、毎日通う事を強制していないので、マックス12名というところでしょう。12人がベストです。なぜなら一斉授業もできるし、6名・4名・3名のグループ、ペアにして学習することもできるからです。
 フレネ教育では教室という概念はありません。アトリエ(工房)の中でなにかこうやりたいと思ったときにすぐ授業化できるよう、すべての教材がアトリエの中に置いてあります。音楽室や家庭科室、理科室というような学校的概念は不必要です。
 朝と夕方、話し合いをします。たとえば「昨日、なんか面白いことがあった?」と聞く。これはフレネ教育の方法です。子どもは、お母さんと喧嘩したとかいろいろなことを話します。そこから授業に発展することもあります。話し合いは小学2年生から中学1年生まで、異なる学年が一堂に会してやります。まったく問題は起きません。異年齢異質な集団を意識的に構成しています」

――― どういう話し方をされるのですか?
 「大人は子どもに対してを教えようと思ってしまいがちです。そうではなく、高級なことを子どもがわかるように話すことは可能です。「木幡さんの言いたいのはこういうことじゃないか」というふうに、子どもがぼくの言葉をサポートしてくれます。ここにいるのは、児童ではなく「仲間」です。そうは言っても子どもたちからは「木幡さんがここでは絶対だね」と言われてしまいますが」(笑)。

――― 突然、子どもが死にたいとか言った場合は、どういうことになりますか?
 「ここにいる子どもにそういう相談を受けたことは過去20年で一度もありません。基本的に悩みは解決されていく空間なのでしょう。ミーティングの後、自分のことは自分で解決する。干渉しません。話は聞くし雑談はできる。しかし限界があります。「僕はあなたにはなれないし、あなたは僕にはなれない」と伝えています」

――― ここでは、先生/生徒という呼称はあるのですか? 木幡先生というのですか?
 「いいえ、ありません。「木幡さん」、「おじいちゃん」とかですね(笑)。先生は、教える/教わるという関係がないと成り立たない名称です」

スクールの中の契約、憲法という考え

――― スクールの中に、契約、憲法という考え方がありますね?
「命令や強制は一切ありません。1つだけ、契約として、「1日1回はえんぴつをもって書く」というものがあります。また、子ども自らマナーやルールよりも厳しい憲法を作りますが、その憲法は固定したものではありません。ある日、座る席の問題でトラブルが起き、お互いが座りたいところに座るのが自然だけど、ここはくじ引きにしました。決めたことは遵守します。本来、各自自由に座るのが自然ですが、子どもが集まる場所にはトラブルがつきものです。私の自由とあなたの自由に折り合いをつけるために憲法を作りますが、不必要になれば、シャッフルすることもできます」

――― 書くこととは? また契約の実現とは?
「読めるけれど、書くのは苦手という発達障害の子どももいます。いま、タブレットがあるので、鉛筆なしで表現することもできますが、手の働きや手の試行錯誤をもっと重視したいと思っています。しかし、強制はしません。
また、困った時にみんなで考える。それが憲法の意味するところです。お互い気をつけよう、そして喧嘩両成敗はありません。何が原因かを常に考え、具体的な方法を作り上げ解決に導きます。共同批判はなく、自分の意見を言い合う。あと、ゲームは一切禁止。これは「家でできることをここでやらなくてもいいのでは?」という子どもから出た考えで決まりました」

――― 契約、憲法というと国家、その下部構造である市民社会を連想しますが、どういう観念をお持ちですか?
「公教育は、国民をつくるのが目的です。市民社会という概念は子ども社会では大きすぎる感じがします。市民社会よりもっと小さな個がむすびつきを大事にしていく。発達障害の子どもは、一般の言葉やルールが理解できないこともあります。例えば、ヘリウムで風船を作った時、浮いている他の子の風船があり、それを取って自分のものと考える子がいました。たとえばジャパンフレネの前の惣菜屋さんのテンプラをとってきて、自分のものとはいえないだろうといっても通用しません。そこで憲法をつくるのです。とりあえず、自分のものでないものは、確認をとる。市民社会は暗黙のルールがありますが、それを理解できない子に寄り添っていく。市民社会以前の問題ですね。たこつぼのような小さな共同体ですが、それが人間生活の原点です」

――― 学びの場は、言葉だけでうごかせないのでは?
「暗黙知もあります。言語化されていない身体知、ダイアローグ=対話。ディベートではありません。ディベートとは自己を正当化し、他者を攻撃する裁判の言葉です。対話は、他者の言葉にいつでも乗りかえることができる人の姿、姿勢です。同じ空間や個人的な関わりかかわりのなかで、対話が成立していきます。喧嘩して、言い負かされたのか、くやしいと言って泣く子どもがいます。そのこどもは対話を繰り返すことによって、自分の挫折や失敗を乗り越え、以降、けんかの頻度は少なくなっていきます」

――― 卒業生は?
 「そもそも卒業という概念がありません。休み時間、給食や掃除当番という概念もありません。同時にそれを指導するという概念もありません。自らすすんで実行できる身体性を人と人との関係から作っていきます。学校復帰する子、高検を受ける子、留学する子。行き先は、未知です。行動してから考えることが重要でしょう」

 学びの行き先は未知。未知にたいして、恐怖を抱く人と、希望を抱く人がいる。「子どもが歩くことを覚えるのは、歩きながらです」とフレネは言う(『言語の自然な学び方』)。子ども、大人関係なく、「未知」に対してどう踏み込めるか、現代に突きつけられた大きな課題だ。


2019年3月15日  ジャパンフレネで収録

竹田 啄

人を見守り続けるワークショップ町づくりと学びの場作りの考察 竹田 啄

ワークショップの普及と混乱

 21世紀以降、日本でワークショップという方法が注目を集め続けている。
 2001年に中野民夫が『ワークショップ』を出版したことをきっかけに、今日に至るワークショップブームが始まった。中野が「講義などの一方的な知識伝達のスタイルではなく、参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学び合ったり創り出したりする学びと創造のスタイル」と定義したように、ワークショップは、参加者が主体的かつ共同して参加・体験することで、学び合い、創ることに特徴がある。
 以降、ワークショップは多くの領域で発展を続けている。代表的なところでは、教育や学習領域、商品開発・アイデア創発領域、そしてまちづくり領域がある。しかし、ワークショップという方法が普及し、方法論を知りたいという需要が高まるにつれ、本来のワークショップとはかけ離れたような実践も増えている。まちづくり領域でのワークショップもその一つであり、現場では混乱が多くみられる。本稿では「ワークショップはまちづくりに有効な方法なのか」という問いの探究を通じて、未来の学びのあり方を探求していく。

住民参加のためのワークショップ

 まちづくりにおけるワークショップとはどんな実践なのだろうか。
 そもそも「まちづくり」という言葉の意味には、二通りの意味がある。一つは、住民運動としてまちづくりを指す。反公害運動、日照権運動、性的人権擁護運動など、自治体に対して目的達成のために抗議を行うことなどをイメージしてもらえるとわかりやすいだろう。
もう一つの意味は、行政主導型の都市整備を指している。都市開発の事業、公共事業、マスタープランの作成などさまざまな場面で、住民の参加が促されてきている。この住民参加の手法として、  もともと、住民参加の方法としては公聴会的な説明会が一般的だった。この公聴会方式では、行政への苦情や陳情が多く寄せられていた。ネガティブなコメントを聞く行政の担当者は、説明に時間を費やし、結果として質疑応答などの時間を十分に設けず、参加した住民には不満が蓄積されてくことも少なくないことを、千葉大学の木下勇教授は著書の中で述べている。
 このような一方的な説明会に代わって、注目されたのがワークショップであった。参加者の意見を整理し、計画案を行政と市民が共同作成する認識をつくり、満足感を与えることに成功した。こうしてワークショップが住民参加の手法として有用だという認識が形成された。

「ワークショップってほんとはこういうものなんですね」

 ある地方都市で、図書館の機能を含んだ新たな複合施設建設の市民参加ワークショップを担当したコンサルティング会社勤務のAさん(26)も、行政の担当者に違和感を感じたという。
 「『未来を考える』をテーマに、合計3回のワークショップを開催したのですが。市民の方々の出すアイデアが良い意味で方向性がバラバラで、ありきたりではなく、創造性が発揮された良い場でしたね。ただ、市民のアウトプットのレベルが高かった一方、行政の担当者は市民のアウトプットをクリエイティブなものという見方はしていなくて、最後に市民の意見をまとめたシートだけを 送って欲しいと言われました。ワークショップで出た市民のアイデアは創造性豊かなものでした。しかし、行政や委託業者に終始押されたのは「市民の意見」でした。
 最初から「市民の意見」が欲しいのであれば、わざわざワークショップという形式で意見を聞く必要性は低かったと思います。担当の方たちはワークショップで市民の方々が発揮した創造的なアイデアの面白さを実感できていないようでした。」
Aさんがワークショップでの市民の成果物のクオリティを評価した一方で、行政の担当者が注目するのは市民の要望と不満だった。ではなぜ、市民の声が欲しいはずの行政担当者が、ワークショップ実施をAさんに依頼したのだろうか。
 「過去にその市で、今回と似た市民参加型ワークショップを開催した時、文句だけを言いたい住民が参加し、修羅場と化したことがあったようです。今回の案件がうちの会社に来たのは、設計施工を担当する建築事務所にも、行政にも、ワークショップ恐怖症と言えるものが背景にあるからだと思います。担当者は3回目のワークショップが成功に終わった後「ワークショップってほんとはこういうものなんですね」と話していました。」

本来のワークショップはボトムアップ・協働して
新しい価値を生み出す

 しかし、本来のワークショップは、住民参加のアリバイ作りの機能を果たすものでも、行政の担当者が怖い市民を退けるための方法でもない。
 前述の千葉大学教授で、長年市民参加によるまちづくりを実践している木下勇は、ワークショップを「構成員が水平的な関係のもとに経験や意見、情報を分かち合い、身体の動きを伴った作業を積み重ねる過程において、集団の相互作用による主体の意識化がなされ、目標に向かって集団で創造していく方法」と定義している。フラットな関係で、個々の持つ情報を組み立てることで、グループダイナミクスとも呼ばれる集団内の相互作用によって新しい価値を生み出すことが、ワークショップの特徴である。本来のワークショップは、ボトムアップのアプローチであり、集団の相互作用によって創造性を高める手法だと言える。

ワークショップの限界は、縦割り行政の構造にあり

 ここまでを振り返ると「ワークショップが、まちづくりに有効な方法なのか」という問いには「ワークショップ自体の方法は優れた部分がある一方、現状の行政のあり方においては有効ではない」と答えられるだろう。
 その理由を一言で言えば、行政と市民の重視する価値が異なるためである。市民側は自分のまちや生活上の納得を得ることに価値を置いている一方、行政側は施策・事業の目的を合理的に達成することに価値を置いている。そのため、ワークショップは住民参加のアリバイづくりの都合の良い道具としてが運用されやすい構造が生まれる。
 これは、行政の担当者個人の問題ではなく、縦割り構造に原因がある。行政の職員の前提には、法律・制度があり、行政職員はこれに抗うことができない。一方、日々の生活を営む市民の前提には、法律や制度の枠組みという概念がない。行政と市民の前提が異なるために、両者は噛み合わないのである。
 前述のコンサルティング会社勤務のAさんはこう語る。
「まちづくりに関わる人には、市民の話を聞かないといけないという義務感と、同時に市民の声を聞くことへの恐怖感があると思います。」
Aさんが語る理由は、行政と市民の前提が異なるためである。行政の職員は、仕事として市民の声を聞き、寄り添いたいと感じているが、実際には話を聞いたところで、法律や制度の前提が異なるため、意見を反映しづらいため、心苦しさがあるのだろう。

新しい形の住民参加

 ワークショップがまちづくりで効果を発揮するには、縦割り構造を打破する必要がある。関連する行政の部局関係者が横断的にワークショップに参加すれば、水平的な関係の元で、市民とともに議論することによって、お互いの価値や前提の違いを認識することができる。お互いの前提を踏まえることで初めて、お互いの価値貢献を実現するための解決策を模索することができる。
 しかし、縦割り構造であるがゆえに、さまざまな部局の行政関係者が横断的にワークショップに参加することは現実的ではない。行政に、地域活性やまちづくりを一任することは限界を迎えている。 では、どのようなアプローチによって、縦割り行政の壁を越えることができるのだろうか。
 一つのアプローチに、京都市で「まちとしごと総合研究所」の東信史の取り組みがある。東は、京都市の「みんなごとのまちづくり推進事業」を担当し、京都を住みやすくするためのまちづくりの取り組みを募集・実現するためのプログラムを運営している。
東はインタビューの中で「まちづくりは課題の解決ではない」と言い切っている。今までは、まちの課題を行政と市民が一緒に解決するというアプローチが通常だった。一方、まちづくりを課題解決とは見なさない東は、楽しいことや好きなことの延長として、課題が解決されている状態を理想とする。
東の取り組みは、行政によるトップダウンではなく、京都市が市で「やってみたいこと」がある市民を募集し、実行するまでをサポートをしている。市民が市というフィールドで、自己実現を行うのに必要なスキルがあれば、講座を開いてレクチャーをしている。
 ワークショップの欠点として、みんなで考えたアイデアであるゆえ、責任者がおらず、実行されないアクションプランが生まれてしまうことがあるが、「まちとしごと総合研究所」が常にプロジェクト全体をファシリテーターのように緩く握っておくことで、一貫して見守り続ける仕組みができている。東の取り組みは、ワークショップが本来持っていたボトムアップによる新しい価値の発揮を、プロジェクトという形に読み直すことで、継続的かつフラットな行政と市民の関係性が実現している。

新しい学び観

 私はこれまで、教育や特定スキルの学習を目的としたワークショップの実践を子供から大人までを対象に行ってきた。同時に、ワークショップと学びの関係、についてもアカデミックな側面から研究している。
 過去の実践と研究からまちづくりのワークショップを捉え直してみると、ワークショップの価値は関係性の構築と参加者の自己の変化にあると言える。まちという場を舞台に、さまざまな立場の人間が参加するワークショップという環境の中では、多くの相互作用が発生する。そこでは今まで生まれてこなかった新しい作用が、自己にも他者にも生まれる。他者との相互作用によって、新しい関係が生まれると、今度は自分への変化に気づく。相対的に他者を見つめることになり、かえって自己を省みることになり、自らの前提や特性に気づくことができる。まちづくりのワークショップは、行政と市民がお互いにまちをつくっていくプロセスに他ならないが、同時に個人の中で関係性の変化と自己への内省が生じる。私は、これからの学びは知識を獲得するということではないと考える。まちづくりの参加するプロセスで、人は新しい学び観に基づく学びを得ることができるだろう。

【参考文献】
『ワークショップ 新しい学びと創造の場』2001 岩波新書 中野民夫著
『ワークショップ 住民主体のまちづくりへの方法論』2007 学芸出版者 木下勇著
『ワークショップデザイン論 創ることで学ぶ』2013 慶應義塾大学出版会 山内祐平・森玲奈・安斎勇樹著
「28歳、あの日の僕らに会いに行く自分の仕事をつくる一歩の踏み出し方」2018 京都移住計画 北川由依著
<https://kyoto-iju.com/interview/max>2019年1月22日アクセス