岡崎京子の漫画「へルタースケルター」の中で主人公りりこは、新人モデルの吉川こずえに対し、独白する。
ああ 何てはじけそうにみずみずしい肌!!ぴかぴかじゃないの!!もぎたての水
蜜桃のようなうぶ毛 紅をささなくてもピンクの頬とくちびる 細い首 細い手 細
い腰 細い指 アーモンドのような目…
この子はかつてのあたしと今のあたしの持っていないものをやすやすと全部最初から
持っている……(1)
りりこは「醜い自分」を捨て全身整形によって「美と女性たちの憧れ」を獲得した人気モデルである。文字通り命がけで築いてきた彼女の地位は、こずえの登場によって揺さぶられている。りりこは、こずえが持っていて自分には持てなかった部分に嫉妬している。何故りりこは美を獲得したのにも関わらず嫉妬してしまうのだろう。それはりりこたちが、大衆の憧憬として眼差される対象であるからだ。彼女たちは、常に比較され、消費されるフィクションの一部である。りりこが着れば、わたしも着たい――ここでは、ファッションは憧憬を促す装置なのである。こうした現象は、りりこたちの世界だけのことなのだろうか。
しばしばファッションにおいて、個性とは他者との「差異」をつけることで生まれるものだと思われている。哲学者の鷲田清一によると、社会の都市化によって人間が自己のアイデンティティを民族や階級、職業、年齢といった枠だけで確定できなくなったことがその要因の1つだという。都市化の先にある「出自による差別はなくて、かつ相互に差異のある関係」(2)は資本主義的競争原理とも密接に関わり、人間は自己のアイデンティティや付加価値を他者との差異によって確定しなければならなくなった。ここから「個性」なる言葉も出てきたという。他者よりも美しく、他者よりもセンス良く、他者よりも…、やがて人間は自分と他者を比較した先に優劣をつけたがる。ファッションはこのような差異をつけるには最適な表現なのかもしれない。しかしこれが個性の表現の在り方なのだろうか。ファッションにおける個性とは、表層を比べ判断することで獲得されるものなのだろうか。仮に異なる視点があるならば、ファッションにおける本当の個性の表現とは何なのだろうか。
個性とは「いびつなもの」ではないか。私たちは個性と聞くと、あたかも良いものであるように受け取ることが多いが、個性とはその人間にとって表裏一体の部分である。言い換えるならば、その人間にとって、コンプレックスとなりうるいびつな側面とそのいびつさが個性として捉えられ、魅力として表出される側面が隣り合わせているのだ。なぜときにいびつな側面が魅力に変換されるのだろうか。この変換は、ファッションの魔力というべき力が作用しているときに生まれる。他者との比較によってはみ出した部分に対し、流行や憧憬を超えた自己のいびつさに即したメイク、髪型、服装などを見つけたとき、自己と他者の間で新しい価値観が形成され、いびつさは魅力として捉えられ個性に還元されるのである。しかし反対にファッションの魔力はいびつさを曝け出す装置にもなる。たとえば、憧れの人が着ていた同じ服(あるいは似たような服)を試着したとき、鏡の前の自分に落胆したことはないだろうか。メイクや髪型、帽子、靴などなんでもよい。憧れのあの人にはなれない自分に落ち込んでしまったことはないだろうか。なぜ落胆してしまうのだろう。そこには2つの理由が挙げられる。「自己とファッションとの戯れ」がないことと、他者の作り上げたフィクションの型に無理矢理自分を当てはめようとしているからである。
自己とファッションとの戯れとは、自分のいびつさと向き合うことと同義である。つまり自分と戯れ、試行錯誤しながら、自覚的に自らのフィクションを創作する行為である。中には、この試行錯誤が人間の表層と深層を通して行われた結果、いびつさをいびつと捉えない者や、いびつさと向き合う上でファッションは必要ないと結論づける者もいるだろう。このような者たちは自覚的にファッションと距離を置いているため、すでにある種の個性を獲得しているといえる。自分にはファッションより別のもので個性を表現できるという意志である。
では、ファッションが必要な者たちはどのような戯れや試行錯誤が必要なのだろうか。そこには自覚と時間が求められるのである。ある者が自らのいびつさと向き合ったとき、選択肢は無限に現れる。いびつさを隠すのか、逆に強調するのか、そのためにはどのような装いが必要で、自分はどんな人間になりたいのか…。このような選択肢から自己意志で選びとったとき、はじめて他者との比較と距離を置いた自己との戯れがはじまる。その戯れの試行錯誤のもと、世の中に溢れるファッションの知識や様々なフィクションのイメージは自己の側にまとわせるものとして機能するのである。もし仮に自己との戯れがなければ、私たちは憧憬を促す装置としてのファッションのフィクション性に翻弄され、その枠の基準でしか自己を評価できなくなる恐れがある。つまり、自己との戯れとはファッションによって自己をある枠組みから解放させる行為でもあるのだ。たとえば、「若さ」が女性の美しさの価値であるというという固定概念も「枠組み」の1つである。そのような枠組みの中で女性たちは適したファッションというものを意識するようになる。この年だから、この服は若すぎるかしら…、もうミニ・スカートは履けないかも…、この不安は年を取るたびにつきまとうだろう。あるいは、憧憬の装置によって次々に喚起されるフィクションのイメージに翻弄され、憧れの顔、憧れのファッション、憧れのイメージに合わない自分と延々と対面するはめになることもあるだろう。このような枠から自己を解放するには、自分がこの概念に対し、どのような意志を持っているか自覚することが必要なのである。そしてこの深層にある意志は表層にも現れる。自分の選択の1つ1つで作り上げたセルフ・イメージは、自分のためだけのフィクションなのである。
個性とは、自己のいびつさと対する戯れのもと積み重ねられる人間1人1人の時間の差異ではないだろうか。ファッションの魅力は、こうした戯れの中「わたし」という器を好きなだけ入れ替えることが出来るところだ。一世一代の決意などいらない。昨日の「わたし」は、今日の「わたし」に残像として残り、明日の「わたし」の差異となる。フィクションの中の自分を想像し、実現する過程で、表層的に思われるファッションにおいても自己との対話が行われるのである。自己の戯れの中で辿り着いたファッションの表現は、私たちにときに新しい人間像や印象、人間それぞれの個性の在り方を模索させるきっかけを与えるだろう。なぜなら、この表現こそ他者を比較対象にせず、自らの過去と現在と未来を比較し、どう変わってきたのか、これからどんな風になりたいのか、といった肯定的な自己表現となるからである。そしてこうした自己との戯れのもと確立された「わたし」は、他者に対しても戯れと解放のきっかけとなるのである。
単なる流行や憧憬だけではない「自覚的なファッション」は、周囲の人間を一旦ある枠組みに対する問いかけへ導く。何故この人はずっと同じ装いなのだろう。何故この人はこの世界でこの装いをしているのだろう。こうした問いは、自己とファッションとの戯れに気付くきっかけの連鎖を生み出すのだ。つまり、ファッションにおける本当の個性の表現とは、憧憬を促すファッションから脱却し、自己との戯れの中で、自分のためだけのフィクションを追求していく行為ではないだろうか。いいかえるならば、この自己のいびつさと対峙し戯れるファッションの表現こそ、他者と比較し優劣をつける個性からの決別であり、本当の意味での個性の獲得と言えるのだ。
【参考文献】
(1) 岡崎京子『へルタースケルター』祥伝社、2003年、135頁
(2) 鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』ちくま文庫、2012年、176頁
・大坊郁夫、神山進『被服と化粧の社会心理学―人はなぜ装うのか』、北大路書房、1996年
・成実弘至編『コスプレする社会』、せりか書房、2009年
・成実弘至編『問いかけるファッション』、せりか書房、2001年
・西谷真理子『ファッションは語りはじめた』、フィルムアート社、2011年
・山縣良和、坂部三樹郎『ファッションは魔法』、朝日出版社、2013年
・鷲田清一『ひとはなぜ服をきるのか』ちくま文庫、2012年
・ジョアン・フィンケルシュタイン『ファッションの文化社会学』、成実弘至訳、せりか書房、2007年