「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」— 高校国語の教科書の定番として、いわば国民教材となった中島敦著『山月記』に記された言葉である。私は音楽科のある高等学校にピアノ専攻で入学し、この作品と出会った。
物語は、唐の時代、詩人になる夢に屈して発狂し、虎に変身した男・李徴が、旧友・袁傪に遭遇しその成り行きを語る、というものである。なぜ、虎になってしまったのか。李徴はその理由について「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」と述懐し、慟哭する。芸術家になれる才能を持った特別な存在だと信じる尊大な心と、なれなかったことへの敗北感に耐えられない度量の狭さから、腹が空けば誰構わずと襲いかかる猛獣へと姿を変えたのだと彼は告白したのだ。「自分は李徴かもしれない」と心がざわついた。虎との対峙が始まった瞬間だった。徐々に追い詰められるのを感じた。そして、人前での演奏が恐怖となった。自分の演奏から「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」を他者に見透かされるのが怖かったからだ。
しかしその後、アートマネージャーとなった私がコンサートの舞台裏で目にしたものは、意外にも恐怖心と戦うアーティストの姿だった。そして、そのギリギリの精神状態に打ち勝つように、人の心を揺さぶる表現を舞台上で放つアーティストに感銘を受ける一方、自己完結に終始する表現者も目にした。その度に、自分自身の過去、虎になった李徴が披露した詩に対してその才能を理解しつつも一流と呼ぶには何かが足りないと感じる袁傪の葛藤、虎になっても本質的には何者にもなれていない李徴の哀れさを思い出した。それから私は芸術に限らず、スポーツや講演会、非日常的な世界からありふれた日常に至るまで、「人の心動かす表現とは何か」について考えるようになった。そして疑問に思った。人はなぜ「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」を他者にさらけ出す恐怖心を抱きながらも、他者に向かって表現するのだろうか、と。恐怖心に他者が関係しているのならば、その関係を断ち切れば良いはずだ。しかし、それは不可能な選択だった。なぜなら、「この世の中は、人々が互いに関わりあう社会的プロセスから成り立っている」と考える社会構成主義のアプローチを取るならば、人は社会で生きていくために「他者」から逃れることはできないからだ。その視点に立ち、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」を、他者から認められたいという承認欲求であると考えるならば、マスローの欲求5段階説の「欲求段階」に当てはまり、人間の持つ普遍的な欲求であることがわかる。このことから、人間は、認められうる「何者か」すなわち「他者」になるために表現している、と言い換えることができるのではないだろうか。
現に、人はこの「他者」になるために、あらゆる手法を用いて近づこうとした。アイヌの女性たちは、初潮を迎えると肢体や額に、結婚すると顔に口髭や唇を強調するかのような刺青を施し、何者かになった証を刻み込んだ。現在でもファッションやアクセサリー、タトゥ、ドラッグ、儀礼や儀式など、身体を飾ったり、傷跡を残したり、また、意識的にトランス状態になる行為は、自分ではない「他者」になることに積極的に向かわせているかのように見える。しかし、それは、李徴が虎になっても本質的な「他者」になれなかったように、結果ではなく単なる通過儀礼に過ぎないのかもしれない。
表現の話に戻そう。表現の中でも「他者」になるための表現とは何か、と考えた時、表現から圧倒的な何かを感じ取ったことがある者であれば、技術の巧みさだけを話題にするのはあまりにも野暮である、ということが理解できるだろう。スポーツでは最高のパフォーマンスが発揮されている状態を「ゾーン」と言い、心理学者のチクセントミハイは「フロー」と定義する。これらの概念が表す、自分の意思とは超えたところで体が動く状態、つまり「せざるを得ない何かに動かされている」結果が、人の心を揺さぶる表現として現れるのならば、その状態こそが何者かになる状態と言えるのではないだろうか。自分の力を他律的に放棄するのではなく、自律的に放棄する勇気、すなわち、自分の力ではどうすることもできないと認める「勇敢な自尊心」を持つものこそが、本質的な「他者」になる資格があるのではないか。戯曲家の福田恆存氏は『藝術とは何か』で、「勇敢な自尊心」を失った人間に警鐘を鳴すかのように、「近代人は何者かに操られているという意識を失ってしまったために、結局は操り人形に堕落してしまった」と述べている。
また、社会学者の宮台真司氏は、「尊厳・自尊心」は「試行錯誤」をする中で、他者が認めるという「承認」経験を通じて高めていくものであり、人間を社会的に成長させるのは、この「尊厳・自尊心」と「承認」のメカニズムによる循環であると説いた。また、他者に対して「試行錯誤」できる状態を「自由」と呼んでいる。この自由の意味についても、「感染」する時こそ「自由」になる、と述べ、直感でスゴいと思う人や出来事に感染した瞬間、意思を超えて動いてしまう、その状態が最も「自由」を感じる瞬間なのだと説明している。「勇敢な自尊心」はこのような「自由」な状態で力を発揮し、「他者」となると言えるのではないか。
一方、操られること意識しない、または他律的にしか放棄する術を知らない「臆病な自尊心」は、他者に感染する力がなく、全ての力が自己に向かい、自己完結する。他者を欲しているかのように見えて、結局は自己を求めているにすぎない。「感染」する力を持たず、「自由」を失った不自由な状態で悪循環が起こると、人は他者も自己をも攻撃する虎に姿を変えてしまうのかもしれない。
この悪循環を断ち切り、「表現」へと向かうにはどうすれば良いのだろうか。それはいかに多く「感染」する機会を得るか、に尽きる。劇作家であり、兵庫県豊岡市の芸術文化に参与する平田オリザ氏は、2017年8月、主宰する劇団「青年団」の拠点を現在の東京から豊岡市に移転する方針であることを発表した。平田は「アートや芸術文化、教育などの施策に市が一丸で取り組んでいる情熱に後押しされた」と理由を述べる。そして、豊岡市の教育について「全ての子に文化の自己決定能力を持たせるのが最終目標」と啓示した。アートや演劇を通して表現の持つ「勇敢な自尊心」を育む教育を、単なる通過儀礼としてではなく「感染」が伴うものとして本腰で取り組む、という豊岡市の決意が感じられた。そして、表現の価値を知るということは、一流の芸術家のみに許されたものではなく、「人間」そのものを理解するという生涯学習であり、その権利が全ての人にある、ということ改めて示したと言えるだろう。
虎と対峙した高校生の私が、苦しみながらも自己や他者を傷つける表現を選ばなかった理由は、「表現」の出発点である「感染」する機会に恵まれたからだと確信している。人は虎になってはいけない。我々はこれからの世の中を作る子供達のためにも、そして、超高齢者社会をよりよく生きるためにも、他者と生きる社会の一員として「表現」について真剣に考える時が来たのではないだろうか。
【参考文献】
1)上田吉一(1988)『人間の完成: マスロー心理学研究』誠信書房
2)ゲーレン(1985)『人間: その本性および世界における位置』(平野具男訳)法政大学出版局
3)チクセントミハイ(1973)『フロー体験入門:楽しみと創造の心理学』(大森弘訳)世界思想社
4)中島敦(1969)『李陵; 山月記』新潮社
5)福田恆存(1977)『藝術とは何か』中公文庫
6)宮台真司(2008)『14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に』世界文化社
7)「結婚後は唇の周りに髭を模した刺青を入れる。アイヌ女性に伝わる伝統文化を記録した写真」,
<http://karapaia.com/archives/52236529.html> 2017年12月19日アクセス
8)阿部江利、秋山亮太(2017)「平田オリザさん劇団の拠点、東京から豊岡へ移転」神戸新聞NEXT,
<https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201708/0010501065.shtml> 2017年12月19日アクセス
9)柴崎達矢(2017)「平田オリザさん講演: 観光とアートでまちおこし 劇団ごと移住の意向 企画力ある人づくりを
豊岡/兵庫」毎日新聞2017年12月10日 地方版,
<https://mainichi.jp/articles/20171210/ddl/k28/040/254000c> 2017年12月19日アクセス