私の職業は言語聴覚士である。言語聴覚士について簡単に述べると、『コミュニケーションに障害がある人や口から食べる(摂食嚥下[せっしょくえんげ])機能に障害がある人を支援する専門職種』である。現在私は入院患者の平均年齢79.8才という地域の病院に勤務している。この病院には、原因は様々だが「食べられなくなった」ために入院する高齢者が多い。
人はなぜ食べるのか。人にとって「食べる」という行為には二つの意味がある。一つは、栄養をとり生命活動を維持するための生理的行動としての「食べる」。もう一つは、味わいや団欒など文化的行動としての「食べる」(*1)。
しかし私は言語聴覚士として患者に関わる中で、生命活動を維持するはずの「食べる」行為が、生命を終わらせてしまう矛盾に直面することがある。飲みこむ力が弱まれば、窒息や誤嚥性肺炎[ごえんせいはいえん](食べ物が誤って気管に入ることによって発症する肺炎)が生じる。重症化すれば直接の死因ともなる。「食べる」ことでしか生きられなかった時代はそれでよかった。しかし、医療技術が進歩した現代において、「食べる」ことなく「生きる」ことが可能になった。食べられなくなった超高齢者に対して行われる胃ろうや、栄養点滴投与は機械的な延命措置ではないかという疑念が湧いている。特別養護老人ホームの常勤医である石飛幸三氏は、一定の高齢者にとって肉体的にも精神的にも苦痛がなく穏やかに亡くなることを「平穏死」といい、安らかな死の迎え方を提言している(*2)。しかし、人生の飛行を静かに着陸させることは、「生かす」ことよりも難しい。そこには「何もしない」ことへの家族の葛藤があるからだ。特に入院させることを希望する家族は、病院という場所に、なんとか生きてほしいという一途の望みをかけている。だから高齢であっても生かすための医療を希望する。
ある高齢の男性患者がいた。食べると激しくむせこみ誤嚥が生じることから、もはや口から食べることは難しく点滴から栄養摂取をしていた。呼吸は酸素マスクなしにはとても保てない状態で、痰の吸引を頻回に行なっていた。
彼の妻は、私にこう質問した。「なにか食べられませんか?少しでも…。もともと甘いものが好きだったからプリンを食べさせたい」と。私は迷う。どんなに介助の仕方を工夫しても誤嚥は防ぐことができない。もはやこの患者にとって「食べる」ことは生きることではなく死に近づくことだ。普段、口のケアをするために、一瞬マスクをはずした時「何か食べたい?」と本人に尋ねても小さく首を横に振るだけだ。私は、本人の意思を尊重すべく「ご本人に聞いてみましょう」と答えた。ベッドサイドで妻がプリンを見せながら「お父さん、プリン持ってきたよ。食べる?」と聞くと、酸素マスクの下で苦しげな呼吸をしながらもはっきりと彼は首を縦に振ったのだ。そして妻のために口に入れたプリンは、その後すぐに痰とともに吸引された。
「死なないでほしい」という妻の願いは点滴をすることで生理学的「食べる」を代償し、ただ生きているのではなく「好きだったプリンを食べさせる」ことで文化的「食べる」を実現し、その人らしく生きていることを求めていたのだ。
哲学者鷲田清一氏は著書『<食>は病んでいるか 揺らぐ生存の条件』の中で「食わなければという、これは人間の核にある事実である。が、食うこと、味わうことに人間の生存や体験の意味が凝集しているというのが、さらにもっと核にある真実であるようにおもえる。」と述べている(*1)。まさにこの男性患者は死にむかいながら、苦しんでも妻のためにプリンを味わった。
第三者からみれば、妻の「苦しんでいるのに食べさせる」「生命維持のために必要がないのに食べさせる」という行為は一見矛盾しているように思える。しかし、夫亡き後独りとり残される妻にとっては、もうすぐおとずれる夫の「死」にむかって、「食べる」という共通の生存体験を得ていたのだ。
「生きる」ことと「死ぬ」ことは対極ではない。「生きる」ことの延長に「死」がある。長寿国である日本にとって「死」をどうむかえるかという関心は高いといえる。公共図書館にある健康をテーマにした本棚には、「穏やかな・ぽっくり」という修飾語句が使用された「死」に関わる本が多くならぶ。いわゆる老衰の年齢にさしかかったとき、こんな風に死にたいという願望は叶うのだろうか。「死」が目の前に迫った時、もはや自分の意思ではどうすることもできない極限の状態に陥るのではないか。だとすれば、高齢になり食べられなくなった時、人工栄養投与にしても、何もされないにしても、食べさせられるにしても、自分の意志とは別のところで他者が承認した行為が選択されるのだと言える。他者とは家族や自分と関係性のある人のことだけを指すのではない。自分をとりまく社会のありようとも言える。でき得るかぎり食べないか、でき得るかぎり食べるか。どちらを選択するべきか議論することはもはや意味がない。なぜなら、結局人は、理想の死に方を考えたとしても、死に方を選択する自由はないからだ。だからこそ、極限の状態に陥るまえに生き方を選択し行動する自由を持つべきではないだろうか。
【参考文献】
*1『<食>は病んでいるか−揺らぐ生存の条件—』2003 ウェッジ選書 鷲田清一著
*2『口から食べられなくなったらどうしますか。「平穏死」のすすめ』2013 講談社文庫 石飛幸三著
3『「平穏死」という選択』2012 幻冬舎ルネッサンス新書 石飛幸三著
4『「平穏死」を受け入れるレッスン』2016 誠文堂新光社 石飛幸三著
5『いのちと食 食べるー生きる力を支える』2012 中央口論新書 大久保満男・大島伸一編
6『安楽死と尊厳死—医療の中の生と死—』 1993 講談社 保坂正康著
7『家族を看取る 心がそばにあればいい』 2009 平凡社新書 國森康弘著