一致することのないコミュニケーション

コミュニケーション能力のダブルバインド

 学校教育で学んでいる私たちは今、コミュニケーション能力をこれまでになく求められている。しかし、コミュニケーション能力とは何か。何を求められているのか、疑問を持ったことがある人も少なくないはずだ。なぜなら、私たちが求められているコミュニケーション能力はダブルバインド(二重拘束)の状態にあるからだ。つまり、私たちは社会の変化に伴い、意見をはっきり述べることが求められている。一方で、日本特有の察して分かり合う文化に長年親しんできた経験による無意識的な能力として「空気を読む」ことが求められている。例えば、教室でのあるシーンを想像していただきたい。何でもはっきり言うことが大切ですと教えられた子どもが先生の言うことに逐一意見を述べようとするのに対して、徐々に「空気読めよ(発言するなよ)」という視線が集まる。すると、その子どもは何をすればいいのかわからなくなってしまうという現象が起きる。こうしたダブルバインドがあることによって、コミュニケーションが苦手だと感じている人だけでなく得意だと感じている人も、人間の関係性や状況への依存などさまざまな要因に戸惑うことがあるのではないか。
 私はこのダブルバインドが存在することを小学生の頃にはっきり認識していた。クラスメイトと担任のやりとりを聞き、自分が何を発言することが正解なのかわからなくなっていた私はできるだけ発言をしない、あるいは相手(2つの立場)が求める発言をすることを断片的にしてきたため「あなたの話はわからない」と言われ続け、それがコンプレックスになり、私のコミュニケーション体験におけるトラウマになった。この状態が大学2年生まで続いた。このダブルバインドに翻弄された私のコミュニケーション体験によって私は他者との関係性に特徴的な現象が起こるようになった。それは、つい数日前までは同じ方向性を共有していたはずの他者と、徐々に身体的な距離感を感じるようになるということである。もう少し具体的に言うと、他者と共有していた価値観や日常的な習慣のようなものは自分の本心ではなかったため徐々に「胡散臭さ」「非現実感」が生まれ、話しているときも何気ない言葉に妙に引っ掛かってしまう感情が頻繁に現れるようになったのである。この感情は他者に対して非常に排他的であり、その排他を抑えきれない場合は自らが属していたコミュニティから離れていった。しかし、コミュニティから離脱する際にはいつも、これでいいのかという自問自答があった。
 学校教育的な意味と社会文化的な意味の差異によって生まれたダブルバインドの問題だけではなく、現在、少子高齢による労働者の多国籍化、情報社会による経済的な格差社会など不可避な課題に対応できない人たちの存在を踏まえた持続可能な共生社会を模索する時、コミュニケーションには根源的な二律背反の課題があると私は考える。それは、自分と他者は一致することがないとわかりつつ、一致点を積極的に模索することを繰り返す行為が求められているという点である。これは、他者とは決してわかりあえないとすぐに諦めることや、時間をかければ必ずわかりあえると信じて突き進むような安易な話ではない。
 では、ここからは「繰り返すコミュニケーション」=「合意形成」とは何かを考えていきたい。私は大学時代、小中高生に向けて学習環境を提供する活動を通してコミュニケーションとは一体何なのかという問いと向き合い続けてきた。この問いについて、私がコミュニケーションという不可解なものを整理していくきっかけとなった事例をもとに紹介する。

「合意形成」によるコミュニケーション

ここでいう「繰り返すコミュニケーション」とは言い換えると「合意形成」のコミュニケーションである。私が大学時代に所属していたゼミナールでは小中高生向けに、新しい学習環境としてのワークショップの企画運営を活動の軸としていた。目的は対象となる子どもたちに他者と協働することの楽しさや難しさを伝えることであった。2年間にわたり私たちはワークショップ中のそれぞれのファシリテーション手法について「合意形成」を何度も重ねてきた。ここでいう「合意形成」とは、自分と他者の間にある「心的な距離感」をどうにか縮めようと行き来する行為である。「心的な距離感」には大きく分けて3つの種類があると私は考える。1つ目は自分が譲れないとこだわっている地点と自分が妥協すべきだと感じている地点の距離、2つ目は自分が妥協すべきだと感じている地点と自分が想定している他者が妥協すべきだろうと感じている地点の距離、3つ目は自分が妥協すべきだと感じている地点と自分が想定している他者が妥協すべきだろうと感じている地点の中間との距離である。したがって、カフェなどで見かける友人同士の近況報告や世間話などは対立がない上に距離がないので「合意形成」によるコミュニケーションには含まれない。
 例えば、声かけのタイミングの手法が議題とする。この時、ファシリテーターが5人いれば5通り以上の手法や考え方があるわけだが、企画、ワークショップ中、振り返りの際にそれぞれの手法や考え方が目的達成のために最善かどうかを話し合う。ファシリテーターが話を切り出し、子どもたちを盛り上げてからフェードアウトしていくやり方をとる人。最初から最後まで近くで子どもたちを見守ることを徹底し、子どもから話かけてこない限り言葉を発さないやり方をとる人。これらが目的達成のために最善であるのかどうかを先に述べた自分と他者の間にある「心的な距離感」を行き来する行為を繰り返し、検討していく。ゼミナール内での合意を導き出す話し合いには毎回相当な時間と労力が必要であった。なぜなら、大人の小さな言動は子どもに大きな変化をもたらすため、ファシリテーターは言動に責任を持つべきだからだ。そのため、ファシリテーター各々が実施した手法の意図や言い方や振る舞い方まで十分に検討していく必要があった。時には、話が衝突して終わってしまうことや同じような話を何度も繰り返すこともあったが、それでもまた、次のワークショップの実施のために顔を合わせ、「合意形成」をしていかなければならない。どうやっても、何度やってもうまくいかない「合意形成」を繰り返さざるを得ない状況があるために何度も繰り返したことには意味があったと、今改めて思う。そして、このときの経験がきっかけとなり今もコミュニケーションについて考え続けることができている。
 私は一般的に必要とされるコミュニケーションはきっと簡単なものではないと心のどこかで感じながらも、唯一普遍のコミュニケーションの定義を探していた。しかし、定義などはない、もっと言えば定義は自分で作るものであり常に作り替えられていくべきものであると、この経験によって体感した。つまり、自分と他者が完全に一致するというコミュニケーションを探していた私だったが、「合意形成」の過程にこそ自分と他者は決して一致することはないが近づくことができるコミュニケーションが存在すると気がついたのだ。しかし、そこには大きな課題が存在していた。

自他の間に存在する「飛躍」

 私が感じていた大きな課題とは、「合意形成」によって生み出される合意には限界があるということだ。人は必ず世界観を持ち、それが当人にとって自明であるがゆえに言葉としてあえて表現されない。例えば、家族や友人、恋人との日常の何気ないエピソードを一文字で表すようにと言われ、“怒“とつけた人がいるとする。日常の何気ないエピソードに”怒”という一文字をつけることは言語的には全く因果関係がないように思えるが、身体的な経験がこうした表現を生み出すことは考えうる。そのため、より深くその時のエピソードを聞いていくと、理解できることがある。しかし同時に、聞き手はそのエピソードを実体験しているわけではないので話し手の伝えたい真意までは理解しきれず、聞き手自らの体験によって補っていることがある。このような現象のキーとなるのが「飛躍」である。つまり、ここでいう「飛躍」とは例に挙げたように、その人の世界観によって生み出される因果関係のことである。この「飛躍」の存在が完全一致の合意を生成することを阻む。「合意形成」の過程において自分の「飛躍」の説明と相手の「飛躍」の理解を繰り返すことによって限りなく合意に近づくことはできるかもしれないが。
 これまでの話を整理すると、「合意形成」とは限りなく合意に近づいていく可能性はあるが、そこには「距離」があり完全に一致することはない。「距離」を縮めていこうとするコミュニケーションでは意図とは異なり自分と他者それぞれにコミュニケーションの「飛躍」が生まれている。
 ここで再度強調しておきたいのは、コミュニケーションにおいて、自分と他者は一致することがないとわかりつつ、一致点を積極的に模索することを繰り返していくべきだ、ということである。人は誰しも唯一無二であり、異なる他者であることを頭では当たり前のこととして理解している。しかし、それを知りながらあるいは知っているが故にどこかで合意を目指すことを諦めてはいないか。無理だとわかっていることや手間のかかることを実際に取り組み、身体に埋め込まれるほど繰り返す。他者との「距離感」を感じるリアリティを得ることなしに、簡単に頭で処理してしまうことに大きな疑問を持たざるを得ないと私は考える。

【参考文献】
平田オリザ『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書 2012