11年間乗っている私の車のキーが壊れた。ドアロックを操作するボタンのゴムが劣化し、とれてしまったのだ。とれたボタンの部分にはぽっかりと穴が開き、穴の向こうに緑の基板とICチップが見えた。そのとき私は、「車のキーは小さなコンピューターだ」ということにはじめて気がついた。
キーが壊れて基板やチップが垣間見えた瞬間、私は自分の発見にわくわくした。わくわくしすぎて、まだとれずに残っていた部分のゴムまでむしりとってしまったほどだ。そしてその結果、私は最近の車のキーのしくみを知ることができた。以前のキーより厚ぼったくなった理由もわかった。
このように、目の前で何かが壊れる、あるいは自ら何かを壊すことが、学習につながる場合がある。そこで本稿では、「壊す」という行為がどのように学習に結びつくのか、さらに二つの例を挙げながら考えてみたい。
算数の実践研究で知られる坪田耕三は、「作って壊す」という活動を取り入れた授業を提案している(*1)。単元は、小学校4年生が学習する「立方体、長方体などの立体図形」である。
坪田はまず、子どもたちに、正方形の厚紙6枚を貼り合わせた立方体を作らせる。続いて坪田は「今作った立方体の辺を切って平らにしてごらん」と指示する。子どもたちが、作ったばかりの立方体にハサミを入れて平らにすると、不思議なことが起こる。同じ形、同じ大きさの立方体を切ったはずなのに、形の異なるさまざまな展開図ができるのである。
子どもたちが作った展開図を集めて、黒板に貼る。「これらの展開図に何か共通点はありますか?」と尋ねると、「どの展開図にも正方形が6つある」「6つの正方形が5つの辺でつながっている」「まわりの辺は14本」などの声が上がる。子どもたちは、この活動を通して、「面や辺、特にその形や数に注目して立体の特徴を捉える」というものの見方や、「立体を展開図として表す」「展開図から立体をイメージする」という立体と平面の対応関係を学習していく。
「立体を作って壊す」活動は、さまざまな方向に発展させることができる。まず「辺ではなく面を切ってみる」。さらに、
・(立方体ではなく)直方体を壊す
・「フタの面のない立方体」を壊す
・四角錐を壊す
など。どの活動においても、「壊す」行為は、(算数の授業で学ぶ)抽象的な概念を実感を伴って理解するための過程として位置づいている。
「壊し」ながら理解するというアプローチを生物に適用すると、解剖という行為になる。心理的な抵抗感を持つ方がいるかもしれないが、杉田玄白の「解体新書」の例をひくまでもなく、医学や生理学の分野で計り知れない成果をもたらしてきた手法である。
小学生のころ、理科の時間にフナを解剖したことがある。麻酔をかけたフナの肛門のあたりにハサミを入れ、えらぶたまで切っていくと、さまざまな内臓が見えてくる。細い消化管をほぐして一本の管になっているのを確かめたこと、「浮き袋」と呼ばれる器官の色や感触など、そのころの記憶としては比較的鮮明に覚えている。
フナの解剖は、「人の体のつくりと働き」という単元で扱われている。魚の体には人間との共通点がたくさんある。私たちは、自分の腹の中に胃や腸がおさまっていて、その中を食べ物が移動していく様子を、なんとなくイメージできている。そのイメージをつかむ手段は、教科書、人体模型、テレビ番組などさまざまだが、私の場合は、フナを解剖した体験が自分の身体イメージの核になっていると感じる。
しかし、私がフナの解剖から学んだことは、それだけではない。もっと大切なこと、すなわち「死」や「生」について学んだ数少ない機会のひとつでもあったと思う。
現行の学習指導要領において、小学校理科の目標は次のように書かれている。
「自然に親しみ、見通しをもって観察、実験などを行い、問題解決の能力と自然を愛する心情を育てるとともに、自然の事物・現象についての実感を伴った理解を図り、科学的な見方や考え方を養う。」(*2)
科学技術教育研究者の小川正賢は、この一文の中に、「見通しをもって観察、実験などを行い、問題を解決する能力」や「科学的な見方や考え方」という西洋科学的な目標と、「自然に親しみ、自然を愛する心情」という日本の理科教育独自の目標が混在していると指摘している(*3)。
小川によれば、英語の"nature"には、日本語の「自然」ほど肯定的なイメージはなく、しばしば「非文明的」というような否定的なイメージをまとっているという。そのような西洋的視点で生物を見れば、体のしくみを理解するための解剖に躊躇することはない。一方、日本の文化風土には、自然と人間が一体となった自然観があり、そこに暮らす生き物たちも愛すべき存在である。解剖が終わった後、日本の教師の多くは校庭の隅に墓を作って子どもたちといっしょに埋葬する。そのようにしてはじめて、小動物の解剖実習は、日本の理科の授業として成立するのだという。
私が体験したフナの解剖において、「壊す」行為は、(西洋科学的な視点で)生物の体のしくみを理解することにつながった。同時に、フナの体を壊し死に至らしめたことは、生の尊さを心の深いところで感じた原体験のひとつとして、私の記憶に染みついている。
冒頭に書いた「壊れた車のキー」の話には続きがある。「キーは小さなコンピューターだ」ということに気づいてからしばらく後、私はふと「もしそうだったら電源はどこにあるのか?」と疑問を抱いた。あらためてキーをよく観察すると、何かを差し込めそうなわずかなスキマがある。そのスキマにマイナスドライバーを差し込んでこじあけたら、銀色の電池が顔を出した。比較的大きな電池だが、さすがに11年間保つことはないだろうから、おそらく車検や点検整備のときに、誰かがこっそり交換していたのだろう。
素人がゼンマイ時計を解体したらまず元には戻らないが、時計職人が解体し、もう一度組み立てれば、再び時を刻みはじめる。しかし、その職人もはじめは素人だったはずだ。一人前の時計職人になるには、解体と組み立てを繰り返しながら、時計の構造についての理解を深めていく必要がある。先の坪田の授業においても、子どもたちは、作ったり壊したりを往還することによって、抽象的な学習内容を実感を伴って理解することができた。
一方、小川によれば、日本の理科は、西洋科学そのものではなく、伝統的な自然観や死生観に基づく「土着科学」の性格をあわせもつ多面的な教科だという。私は、解剖の授業を通じて、「生物の体のしくみ」と「生命の尊さ」という二つのことを学んだ。生命は、一度壊してしまったら、取り返しがつかない。「壊す」という行為は、その「取り返しのつかなさ」を実感を伴って理解するために必要な過程だったと感じている。
「壊す」という言葉は、暴力に直結する否定的なイメージで語られることが多い。しかし、ここに挙げた二つの例のように、学習の場面では「壊す」ことが有効に働く場合がある。自らの意思で対象に働きかけ、その結果、対象が変化するさまを、自分の身体で感じる。その感覚は、必ずしも快いものばかりとは限らず、時として痛みや悲しみが伴う場合もあるだろう。「壊す」という行為にはそのような身体感覚が伴っており、そのことが「壊した」体験を心の深いところに刻みつけるのではないだろうか。
【引用文献】
*1 坪田耕三『算数好きにする教科書プラス坪田算数 4年生』 東洋館出版社 2009年
*2 文部科学省『小学校学習指導要領』 文部科学省 2008年
*3 小川正賢『「理科」の再発見 異文化としての西洋科学』 農山漁村文化協会 1998年