何が書いてあるのかわからない。日本の大学・大学院に進学を希望する留学生が書いた文章を前に、日本語を指導している私はいつも途方に暮れている。無理もない。彼らもやはり、何を書けばいいのかわからないのだ。しかも、彼らにとって日本語は外国語である。
このように、日本語教育における作文指導は、教師・学習者双方から敬遠されてきた。
読み方によっては、彼らの文章は表現がバラエティに富んでいて、とても興味深い。しかし、彼らは日本の大学・大学院への入学を希望する留学生である。日本の大学や大学院で求められる能力とは、小説家のような文章を書く能力ではなく、思考の結果を、できる限り一貫した、理解しやすい形で表現する論理的な文章力、つまり、大学での勉学に対応できるアカデミック・ジャパニーズである。
アカデミック・ジャパニーズが求められるのは、外国人留学生に限った話ではない。ある大学教授は、学部初年次生に対して、駅から大学までの「最もよい道順」をレポートに書かせる、という実践について報告している。一人一人の学生がそれぞれ「よい道」の基準を定め、その基準の妥当性を検討し、その上でいくつかの道を比較して結論を述べる、というものだ。
このような、取り組みやすい活動を通じて、初学者をアカデミック・ジャパニーズへと導く日本語教育ができないだろうか。
何かを思考するとき、私たちが頭の中でイメージするのは、言葉ではない。映像である。そこで、以前、日本語学習を始めて間もない学習者を対象に、映像を利用して文章を書かせてみたことがある。短編ストーリーの映像を、文章でスケッチさせるというものだ。使った映像は、3分程度で言語依存度の低い、ミュージック・ビデオを選んだ。
「感想はいりません。見たことだけを書いてください」
課題提示の際、指示したのはそれだけである。すると学習者は、それまでの課題とは比較にならないほど多くの文字数を書いた。つまり、文章を書くハードルを下げることには成功した。
さらに映像を使って、単に描写させるだけではなく、論旨が明快な文章を書く足掛かりとなるような活動ができないだろうか。一つの事象が複数の視点で解釈できるストーリーを見せ、それぞれの学習者が妥当と思われる主張を選択し、それを論理的に説明するのだ。
そこで、以下のようなショート・フィルムのプロットを考えてみた。
ストーリーは中途半端な形で打ち切り、結論は観る者に委ねる。
つまり、学習者は、ストーリーのオチ(結論)を自分なりに考えなければならない。導かれる結論としては「イジメはあった/イジメはなかった」「女は男の同級生である/同級生ではない」などが考えられる。
イギリスの分析哲学者スティーブン・トゥールミンが実社会の議論形態を分析し、その論理構造を図式化したものに「トゥールミン・モデル」というものがある。そこでは、論証のために踏むべき6つのステップを以下のように示している。
私は、これをストーリーの構成に適用できないかと考えた。
ストーリーの「オチ」は、論理的に一貫した道筋によって生まれるものではなく、作者の「思考」が紆余曲折した末に「飛躍」といった形で生まれるものである。この「オチ」は、議論における「主張/結論」である。「論理」とは、「主張/結論」に至る実際の道筋を詳細に説明するものではなく、どういう前提から、どういう理由で、その結論が導けるのか、それ以外の結論はどうして導けそうにないのか、といったことを、誰にでも納得できるように再構成することである。つまり、ストーリーでも議論でも、人にわかりやすく伝えるためには、「論理」が必要なのだ。
そこで、前述のストーリーの結論を、<男は女をイジメていた/男は女をイジメていない>の2パターンに分け、トゥールミン・モデルに適用してみた。
他にも「そもそも、男と女は同級生ではなかった」等、多種多様な結論が考えられる。
映像やゲームを利用した学習活動は、その多くが、即効性よりも、実践を通して得られる成功体験によって、学習意欲を向上させることを主目的にしている。来日して間もない留学生にとって、日本語で「論理的文章」を書くことはハードルが高すぎるものの、大学、大学院への進学を希望する以上、避けては通れないことである。本研究の実践によって、彼らをその入口へと導くことができればと思う。
【引用文献】
スティーブン・トゥールミン『議論の技法:トゥールミン・モデルの原点』 東京書籍2011年
戸田山和久『新版 論文の教室~レポートから卒論まで~』 NHK出版 2012年
福澤一吉『議論のレッスン』 NHK出版 2002年
門倉正美、筒井洋一、三宅和子『アカデミック・ジャパニーズの挑戦』 ひつじ書房 2006年
野矢茂樹『新版 論理トレーニング』 産業図書 2006年
鈴木宏昭『学びあいが生み出す書く力』丸善プラネット株式会社 2009年