模倣は独創の母である。唯一人のほんたうの母親である。二人を引離して了つたのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣していないで、どうして模倣出来ぬものに出会へようか。
「学び」とは何か。この根源的な問いに多くの偉人が思考を巡らせてきた。「学び」とは究極のバトンリレーではなかろうか。私たちの社会は、先人たちの学びの叡智でかたどられている。私たちも知らず知らずのうちに、「学び」を贈与しあっているのかもしれない。
「学び」は、概して緻密で明確で、主体吸収的な学習として捉えられやすい。しかし、「学び」の主体は、ずっとぼんやりと荒っぽく、微視的で、対象や他者と関係するがゆえに、不安定なものになるのではないだろうか。
例えば、「学び」を関係性概念の構築と捉えて、その関係性を主体と考えてみたい。すると、ヴィゴツキーやピアジェの教育学的発達から、遊びや社会文化的なイニシエーションなどの生活諸行為まで、さまざまなレベルの活動や行為の中に「学び」がみえてくる。「学び」は自己完結できるものではない。「学び」において他者という存在は、自己の枠組みでは到底理解できない何かを残す存在として主体的に現れる。他者は私たちが働きかけることで見えてくる世界そのものであり、その関係性は非対称なことが多い。
そもそも「学ぶ」という行為は、人間の本質的な行為である。これまで、私は「学び」を再帰的な自己創造性によって誘発される経験と考えてきた。マズローの自己実現の5段階欲求説によれば、創造性は人間の最終欲求で、その成長過程が至高の実現をもたらす。創造性は、内的欲求(ありたい自分)と外的欲求(あるべき自分)、もしくは自己と環境の整合性が調和した「自己実現欲求」である。この創造性こそが、自己の世界観や価値観、可能性を開拓する成長欲求の原動力になると考える。
では、この人間に必然的とも言える創造性はどのように獲得されるのだろうか。古くから、創造性は天才に与えられた才能と考えられてきた。しかし、創造性は無からは生まれない。ヒントは模倣にある。往々にして模倣は単に真似るだけの再生産と考えられがちだが、芸術における模倣は少し異なる。芸術の語源「arte 術」が象徴するように、多くの芸術(芸能)教育では初期段階に模倣・習熟学習を行う。先人の残したわざや思考過程を幾度も追体験しながら、型としての創造パターンを身体化するのだ。徹底した模倣学習は、独創性の礎となる。他者理解(相手のまなざしに気づく)と自己理解(自己アイデンティティの確認)を往還的に行うことで、自己実現欲求の糧となる創造性が育まれ、「ただ真似る」からやがて「独創の発見」へとサイクルが切り替わる。このプロセスは私たちの日常生活の中にもあふれている。「学び」は、そのとき、自己と他者の関係性のなかで贈与されるギフトgift(与えるもの)となる。ギフトは生活の中に埋め込まれ、模倣を通じて贈与する・されることもあれば、生きた具体や出来事としてリレーされることもある。
ここでの学びとしてのギフトとは、対話経験である。良き「学び」は、既存世界に揺さぶりをかけながら、他者や自己との対話、外部と内部、無意識と意識の行き来を自由にする。
私の母は初期の認知症だ。言葉や数字の意味認知能力が著しく低下している。やがて言語的なコミュニケーションができなくなり、精神的にも人格的にも変わってしまうだろう。母は毎日、何度も私に訊く。「どうしてこんなにわからなくなるの?これからどうなるの?」と。いつも私は答えに詰まってしまう。理解できないことが増え、自分が自分でなくなるのを静観するだけの日々。それでも、絶対的な不安や喪失感の中で、母は丁寧に暮らしている。なぜだろうか。なぜ生きていかなければならないのだろうか。
生きた具体の姿としての母は、圧倒的な存在だ。私にとって受苦であると同時に喜びであり、まさにその存在そのものがギフトである。学びとして受け取るギフトは、しばしば残酷で、拒絶したくなるような経験として目の前に現れることもあるのだ。矢野智司の言うところの「純粋贈与」(2008)である。
「純粋贈与」とは人から人へバトンリレーされる体験だ。返礼という直接的交換ではなく、その価値は受け手(次代)によって見出される。例えば、夏目漱石の『こころ』の中の「私」と「先生」の関係性や、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』で擬人的に描写される自然風景の中に、矢野は「純粋贈与」を見た。あるがまま-生き様-を提示することで、生きるということを考えるためのまなざしや体験を与え残す。「純粋贈与」は、人間が意識できない感情や無意識レベルでの生の変容全体を捉えようとする体験をも伴う。これは、デューイが主張した「経験としてのアート」にも通じる。アート作品も生き様の象徴として純粋贈与となりうるだろう。模倣学習は、先人たちの思考やプロセスに寄り添う体験を共有することを、時間を超えて可能にする。
「学び」がいかに成立するのかを考えるとき、従来の「教える-学ぶ」という関係性を端的な流れに位置づけてしまうことは、あまりにも単純である。「学び」は、共生する贈与関係の中に生起する。手触りのある生々しい体験を通じて、自己と他者との関係性を再構築し続ける作業が必要だ。言わば、新しい地平に向かう旅であり、「学び」はプリミティブな純粋贈与として、次から次へとバトンリレーされるまなざしそのものではないだろうか。そのリレーの潤滑油になるのが、人間の尊厳を担保する成長欲求としての再帰的な自己創造性である。
自らが贈り手になったとき、初めて自分が受けてきたギフトの大きさに気づくこともある。時には贈り手と受け手が入れ替わることもあるだろう。贈り手も受け手もギフトの存在にしばらく気づかないこともあるだろう。「学び」は人に与えること、外に出すことで姿をようやく明らかにするのだ。そこには「ほんたう」の答えや絶対的な成功方程式もない。正解のない世界をどう生きるのか。それを考え、悩み、問い続けていくこと、そしてそのまなざしをバトンリレーすることが究極の学びだと考える。
引用文献
小林秀雄(1961)『モオツァルト・無常という事』新潮社.
矢野智司(2008)『贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』 東京大学出版.
文章と図示を交互にもしくは同時に考えながら、この授業は進んでいきました。
最終テキストの骨格を、自由度を優先し、あえてハンドドロウイングで構造を見つめます。
この授業での思考の過程を、インプット、アウトプット、そしてその間で起きた考えの変化を、
そのときの率直な感想や思いつきなどもまじえ、時系列でプロットしています。