サービスや学びにも商品化されたものがある。ていねいに作られ、体裁が整っている学び。金銭を差し出せば約束されたものが手に入るような、結果や内容が誰かに保証・管理されている学びを「パッケージ化された学び」と位置づけてみる。
そう考えると、巷にはパッケージ化された学びの場は多くある。
参加者は、それぞれの目的や興味に合う場に集まり、満足感を得たり、はたまた不満足に思ったりする。どうやら参加者たちは無意識のうちに、学びの場へ参加する対価として、発見や気づきを求めている。学びの成果や手に入れた結果は、その場から与えられたもの、購入するかのようなものとして、つまり「商品」としての価値にすり替わっているのではないか。本当の学びの主役は参加者自身のはずなのにである。パッケージ化された場は、周到に用意された場である。参加することで安心感を得たり、一時的に熱中したりすることもあろうが、何を学ぶのか、どこまで許されるのか、といったことはパッケージ化された枠を出ることはない。そして、サービスとしてパッケージ化された学びに偏りすぎたため、学ぶ者の存在までもパッケージ化されてしまう。つまり学ぶ者の理解や認識が、パッケージの中に収まってしまう。もっというと学びの場に飼いならされているのである。
飼いならされるとどうなるか。「やりたいことができない・欲しいものがみつからない」という具合に不安にならないだろうか。求めるものはどこにあるのかと焦り、あちこちのパッケージ化された学びに参加したり、ひたすらに訓練を積んだりするようになる。すると焦燥感のなかで反復し、悪循環に陥る。何かしらの場に参加していないと学んでいないような焦燥感を味わう。いつのまにか自分が何をしたいのか、何をしているのかが置き去りになってしまう。パッケージ化された学びの副作用だ。
副作用のない、学びの根源は野性味だ。野生とは、人によっては心地よい響きに聞こえるかもしれないが、もっと意義や意味すら超えた、泥臭いものである。そして、この野性味を受け入れてくれるのは没入場ではないか。私が考える野性味のある学びに焦燥感はない。制限されるものはなく、没入し無我夢中になれるときにあるのは充足感である。野性味のある学びを公園で見つけることができた。
公園に散歩に出かけると、さまざまな年齢の子どもたちが遊んでいる。よく見ると子どもたちは、遊具の意味や仕様を無視して、本能に任せて遊んでいる。パッケージ化されたものがあるとしてもそれを拒否して、そこにあるもの、自分のしたいことを軸に遊びを作り上げているのだ。遊びというより、自分に何ができるか、何をしたいか、手に触れる現実を手掛りに夢中になるという学びの場だ。「公園」という学びの場では、内容に意味があるか、安全か危険か、という評価は無用だ。「没入場」であることが鍵なのである。
「誰にも邪魔されず没入できること」「案内人・教材の存在はなく内容や結果は学び手に託されていること」「素の自分で、体当たりで現実に挑戦できること」がそろったとき、そこは没入場となるのだ。
かつて哲学者のアンリ・ベルグソンは、「生の飛躍」(エラン・ヴィタール)という考えから、機械的な世界ではなく、人と対象が主客に分離する以前の生命の躍動をとらえようとした。この没入とは、まさに「生の飛躍」であり、行儀よく分離、制御されたものではない。またその場が「公園」である。「公園」とは、ここではメタファーであり、学び場は制御されたものではなく、また、「自由の学び」などという抽象的な言葉で片付けられるものでもなく、もっと根源にある生命の破天荒な躍動の場である。それが野生ではないか。
「公園」は野性味を受け入れ発散できる没入場だったのだ。外から囲み、形が整えられたパッケージ化された場ではこうはいかない。誰かが公園で遊ぶ子どもを評価したり、ある方向に誘導したりしたら、とたんにその野性味は消えて、パッケージ化されたものになるであろう。主体性が溢れることを緩やかに囲っている「公園」ならではの学びがある。
野性味を解放し没入する学びでは、焦燥感を感じたり、主体性が奪われているように感じたりはしない。充足感のなかで自分と向き合い、道を切り開いていくのだ。
野性味ある学びは、泥臭く、思い通りにいかないことの方が多い。だからこそ試行錯誤があり「自分が決めていく・自分が作っていく・自分を決めていく」確かさがある。自分を知るという根源的な問いに接近し続ける学び方なのである。
ところで、没入場は誰もが持ち得るし、持っていたはずだ。時間を忘れ、損得は抜きにして滅茶苦茶に挑戦し続けた経験を掘り起こしてみてほしい。
そのうえで、自分がもっていた没入場がいつのまにか何かによってパッケージ化されていないか、もう目の前に没入場が現れようとしているのに、自分でパッケージ化していないかを問い直そう。
没入場は誰も用意してくれないし、デザインもできない。だからこそ、学びの場があふれる現在を生き抜こうとする強かな学び手には、没入場を大切にできるか、守っていけるかが問われているのだ。
文章と図示を交互にもしくは同時に考えながら、この授業は進んでいきました。
最終テキストの骨格を、自由度を優先し、あえてハンドドロウイングで構造を見つめます。
この授業での思考の過程を、インプット、アウトプット、そしてその間で起きた考えの変化を、
そのときの率直な感想や思いつきなどもまじえ、時系列でプロットしています。