多くの企業組織で「教育の見直し」の必要性が問われてきている。
企業で新しく採用された人は、多くの場合、現場で上司や先輩から業務に必要な知識やスキル、技術を教えられる。研修など、実践現場から離れた学習の機会が与えられる場合は、予め準備された場において、「知識」という塊を一斉にかつ効率的に与えるという方法が取られることが多い。しかし、90年代以降日本企業が失速し、グローバリゼーションの波によって今までの方法が問い直されて久しい。
企業が右肩上がりの成長を遂げていた時代には、効率的に知識と技術を与え、業務をこなせる人を次々に育てる必要があった。ベテラン社員の知識や知恵、言語化できない勘や経験知をディープスマートと位置づけ、その伝達を重視した。そのような「知」を獲得することが次の成功を生むと信じられたのは、過去から未来を予測できることを前提としていたからである。
しかし、メディアがデジタル化し、人々は世界中の情報を瞬時に入手できるようになり、固定した知識の価値は一気に下がった。世界は急激なスピードで変化し、技術はすぐに模倣されるか陳腐化する。過去の成功事例を要素分解し分析してきた解剖学的学習スタイルでは、もはや未来を予測できない。
「主体的に行動ができず指示待ちである」「新しい発想ができない」「失敗を恐れてリスクが取れない」「正解を探してばかりいる」。これは企業組織でよく聞かれる課題である。従来型の「与えられた学習」や、統一的な「知識研修」では限界であることを示している。
ではどうすればいいのか?このような社会的動揺は、子どもたちの学校現場にも表れている。詰め込み型教育が批判され、ゆとり教育の反省を経て、新学習指導要領は、変化の激しい世界に備え「生きる力」の獲得を目指す。しかし子どもたちは生きる力を学校で学べるのか?すべて与えられ、枠の中で事前制御された世界で、穴を埋める問題で点数をつけ、期待通りの解答だけに丸をつけるような学習が生きる力につながるのだろうか。
そのような子どもたちがいずれ社会に出て企業に入ってくる。前述した企業での課題は、学校現場から境界を越えて連鎖し、共通の「これからの『学び』にかかわる課題」として表れている。
与えられた問題を決められた方法で解決する「妥当解」付き問題解決。過去から未来が予測できた時代には、「過去問」を数多く解けばよかった。しかし、変化の激しい不確実性の高い未来に向かって新しい問題が出てくるとき、過去の知識と経験の辞書からの模索では太刀打ちできないだろう。
前例のない事象、変化し続ける環境、不安定な状況を、わからないまま引き受けるとき、人はむしろ苦しみながらも学ぶのではないだろうか?
知識基盤社会、高度情報社会、多文化共生社会など、社会が急激な変貌を遂げるのに伴って、高度で専門的かつ複合的な知識、思考、能力、スキル、対人関係が要請されている (上野 2013) という。このような抽象的で乾いた言説は、人々を不安にさせることはあっても、何の学びも促進しないだろう。
グローバル人材という抽象を恐れて英会話コースに通うのではなく、来週ベトナムのハノイで行われる営業会議で、日本の販売戦略を伝えることになったら何を学ぶのか?現実の、「今ここで」失敗をしながら学ぶ、それが必要なのではないか。持っている知識と培ってきた経験だけでは解けない事象を前にしても、慌てずそのまま進む。うまくいかなくとも引き返すことなく問い続け、リアルな現象をとらえ直して常に試みていく覚悟こそが生きる力になるのではないか。
ではこれからの学びとは何か。意外なことに過去の賢人からヒントを得ることができる。ソクラテスの姿勢、そして宮沢賢治の根源的な問いである。
なぜソクラテスか簡単に説明する。小玉(2008)によると、哲学の祖であるソクラテスは、当時のアテネで流通していた法やルールの根拠を疑い、徹底的に批判することが市民の成熟と都市国家の活性化に不可欠と考えていた。異なる思想の対立した緊張関係を、むしろ持続的な力にして両者を育てようと試みたのである。しかし最終的には、彼は秩序を乱す者として死刑にされている。このことから、このような論争をしかけるソクラテスの姿勢は、既存のシステムに挑む行為であり、安定を乱す役割を担う「危なさ」を持っている。 しかし同時に物事を批判的に吟味していくことで、対立する立場の優劣をつけるのではなく、両者をともに成長させることを可能にしているといえる。これを小玉は「ソクラテス的センス」と表している。理解してもらえない。同意できない。多様で変化し続ける未知の世界で、自分とは異なる人たちと生きるために土台となる学びの姿勢であろう。
正解のない問いを探す旅を描き続けた宮沢賢治はどうだろう。彼の生への葛藤は、学ぶことが本来生きるためであったことを考えれば、終わりのない営みであり、生きている現実から切り離された学びはあり得ないはずだ。「ほんたうの幸い」とは何か。よりよく生きるための根源的な問いを立て続けること、これはまさに今、わからない、という未知を引き受けて生きるための学びの原点ではないか。
学びとは、過去から導き出された知を獲得することではない。疑問もなく受け入れていた前提を、批判的に吟味し、改めて根底から問い直す。この問い直しができること、とらえ直しができること、とらえ直そうとする試みが学びである。
今までの前提が全く通じない未知の世界へ飛び出し、わからないまま全部引き受けてみる。壁にぶつかり、驚き、悩み、感じる。事前制御されないわからなさの体験を、素手で引き受けていくプロセスそのものが、未知の、おそらくは複雑で多様な社会を生きていくための、これからの学びであると考える。まさに未知とは、抽象ではなく、具体なのだ。
学びとは、未知に向かって生きるため、細部にいたるまで具体的な、探求する行為と言える。
【引用文献】
上野正道 (2013) 「民主主義への教育 — 学びのシニシズムを捉えて」東京大学出版会
小玉重夫 (2008) 「シチズンシップの教育思想」白澤社
文章と図示を交互にもしくは同時に考えながら、この授業は進んでいきました。
最終テキストの骨格を、自由度を優先し、あえてハンドドロウイングで構造を見つめます。
この授業での思考の過程を、インプット、アウトプット、そしてその間で起きた考えの変化を、
そのときの率直な感想や思いつきなどもまじえ、時系列でプロットしています。