東日本大震災から3年以上が経過している今もなお、被災地ではさまざまな困難を抱えながらも生活再建を目指す大人たちや、その陰で悩みを抱え行き詰まる子どもたちもいる。また全国に存在する児童養護施設に入所している子どもたちの多くは虐待を経験している。この他にも、多くの社会問題が世の中には存在する。
社会問題を捉えるうえで最も重要なことは、私たちが社会問題を「自分たちが生きていくうえで考える必要があるもの」と認識することではないだろうか。社会問題の多くは、当事者だけが苦しみを抱えてしまっている。そして問題が広く社会的に認知されることなく、「当事者」と「当事者ではない人」という二項対立の構造が作り上げられている。
「当事者」と「当事者ではない人」という区分の構造は、自分とは関わりのない他者の問題として、その問題を自らが生きる日常から外してしまいかねない。しかし、実際に私たちが生活する日常には社会問題は生じてないのだろうか、そこに無関係な人など存在するのだろうか。
社会学者である草柳千早によると、あらゆる問題に対して解決するための活動や言説があがる前に、私たちは日常の多様な場面で言葉にならないような違和感を覚え、息苦しさや生きづらさを感じて生きている。これらは「社会問題のようなもの」を体験しているということであり、それに対して異議申し立てをする活動こそが社会問題を創り上げるのだという。
つまり、社会問題とは私たちが何気なく過ごしている日常に存在し、そこでの生きづらさや困難から生じているのである。そのため、本来ならば私たちは無関係ではいられないはずだ。しかし、多くの社会問題に対して無関心でいることができてしまっている。
「無関係ではいられないのに無関心でいることができる」、つまりこれは私たちが日常で生起しているジレンマを「生きていくうえで考える必要があるもの」として認識していないということである。
私たちが日常で生起している問題を「生きていくうえで考える必要があるもの」として認識するには、どうすればよいのだろうか。このような状況に対して私は「生活様式としての民主主義」が必要であると考える。
民主主義とは「私たち一人一人が私たちのことを決める」という民意の原則に基づく制度だ。選挙などの方法によって代表者を選出し信託し、間接的に政治に参加する政治制度である。
これに対して「生活様式としての民主主義」とは何か。民主主義を単なる政治制度の一つとして理解するのではなく、生活様式と捉えるのである。日常生活を常に揺れうごき再発見・再創造される不安定な部分からなるものと捉える。そして、不安定な日常生活を冷静に見つめ、それを取り巻いている現実や問題性を読みといていく。この一連の行為が「生活様式としての民主主義」である。それは「深層民主主義」(Deep Democracy/
アーノルド・ミンデル)と呼ばれているものでもある。個人の日常心理の中に、矛盾や葛藤が深層心理まで染み込み、個人の問題が実は社会問題であることを気づかせてくれる考えだ。
このように「生活様式としての民主主義」の実践では「誰もが問題に関与する」という意味で、誰もが問題に対する当事者である。そこには「当事者」と「当事者ではない人」という二項対立の構造は存在しない。当事者として疑問を持ったり話し合ったりすることで、今まで関わりのないものとして扱ってきた問題に対して、自分なりの考えを持つことに繋がるのである。
「生活様式としての民主主義」の実践は、日常生活での悩みや葛藤を考え続けるというリスクに自分自身をさらす行為でもある。では、なぜリスクを引き受ける必要があるのか?
ウルヒック・ベックは近代社会を「リスク社会」と呼んだ。事故や災害などの危険な出来事をあらわすデンジャー(danger)とは異なり、リスクとは人々が何かしらの行為をおこなった場合、それに伴って起こる危険のことである。リスクにさらされる状況は、時・場合・集団属性に関係がないため、誰も避けることができない。豊かさを生み出す近代社会が、同時にさまざまなリスクを生み出し、これを人々に分配することで、私たちの生命と社会関係を蝕む時代。それがリスク社会である。
リスク社会を迎えている現代において、私たちは貧困の連鎖や環境汚染といった様々な社会問題に直面している。これらの社会問題に共通する特徴は、困難を抱えている当事者だけでは解決が難しいことである。
いずれの問題も社会の構造や歪みが引き起こすものであり、個人の力で立ち向かおうとしても明らかに限界がある。その歪みの一つが「無関係ではいられないのに無関心でいる」私たちの存在だ。
私たちは社会問題に対して無関係ではいられないのに無関心でいる。そして、無関心でいることが生み出しているリスクにすら無関心でいる。東日本大震災や福島第一原発の事故といった、何らかのリスクや痛みを伴わずには解決できない問題が、何の準備や覚悟もないままに突如として現れ、目の前に大きく立ちはだかっている今もなお、私たちは無関心でいる道を突き進むのだろうか。
私たち一人ひとりが問題に関与している自覚をもち、困難を抱えている人だけではなく社会全体で解決を目指すことを出発点とし、問題に取り組まなければならないのだ。
そして、あらゆる問題が錯綜しているなかでどのようなポジティブな結果であれば価値あるものと言えるのか、またはどのようなネガティブな結果であれば、受け入れたり耐えたりすることができるのか。リスクを考慮した上で、意思決定をしていくことが必要なのである。
民主主義の最も重要な価値は、変化に最も柔軟に対応しえる社会形態であるということだ。つまり、変化し続けることが民主主義の本質なのだ。このような意味で「生活様式としての民主主義」の実践をし、悩み考え続けるというリスクを引き受けることで、私たちは日常を少しずつではあるが変化できる。そして、あらゆる社会問題の根底にある日常に潜む問題性に気づき、誰もが当事者として関わる社会実践へつなげていくこと。このリスクを受け入れながら変化し続けることが、民主主義の体現であり現代の学びではないだろうか。
【引用文献】
Arnold Mindell (2013) ディープ・デモクラシー —<葛藤解決>への実践的ステップ— 春秋社.
Gert J.J. Biesta (2014) 民主主義を学習する —教育・生涯学習・シティズンシップ— 勁草書房.
管柳千早 (2004) 「曖昧な生きづらさ」と社会 —クレイム申し立ての社会学— 世界思想社.
上野正道 (2013) 民主主義への教育 —学びのシニシズムを超えて— 東京大学出版会.
Ulrich Beck (1998) 危険社会 —新しい近代への道 — 法政大学出版局.
文章と図示を交互にもしくは同時に考えながら、この授業は進んでいきました。
最終テキストの骨格を、自由度を優先し、あえてハンドドロウイングで構造を見つめます。
この授業での思考の過程を、インプット、アウトプット、そしてその間で起きた考えの変化を、
そのときの率直な感想や思いつきなどもまじえ、時系列でプロットしています。