「あなたは、どんなときに幸せを感じますか?」
こうしたアンケートには決まった答えが返ってくる。それは、ドライブ、旅行、買い物、友人と食事、人に喜んでもらえたとき、家族ができたときなど。間違いではない。また「お金持ち=幸せ」という考え方も当然出てくる。しかし「他人から見ると幸せそうだが、本人は不幸せだと感じる」という反論も出てくる。
さらに、「他人から見ると不幸せに思えるが、本人は幸せだと感じる」
そういう人もいるのではないか? 私たちは、ここにフォーカスした。
たとえば難病に向き合って前向きに生きる2人、アシュリー・ヘギさんと大野更紗さんがいる。
アシュリーさんは、プロジェリア症候群という病気だった。この病は、新生児期ないし幼年期に好発し全身の老化が異常に進行する、先天的遺伝子異常を原因とする早老症疾患で、平均寿命は13歳である。新生児において約400万人に1人、幼児期を通じて約900万人に1人の頻度で発症するとされており、根本的治療法は認められていない。
大野更紗さんの病気は、日本で数人しかいない名医でも判断のつかないほどの難病だった。突然の発病、つらい体を引きずっていくつもの病院をめぐり、痛みをともなう検査を受けて、病名が判明するまで1年間の検査期間が続いた。そして、「皮膚筋炎」と「筋膜炎脂肪織炎症候群」の併発と診断されたあとも、治る見込みもないまま入院生活を送らざるをえなかった。
読んだだけでたいへんである。すごく苦しい状況のなかで彼女らは生きている。
人はなぜ難病のなかでも幸福でいられるのか
2人の生き方には以下の共通点があることがわかる。
「死は誰にでも訪れるものだから、恐れるなんて意味がない」(アシュリー・ヘギ)
「自分のおかれた境遇を他人と比較して嘆き悲しむのではなく、現実から逃げずにまっすぐに向き合い、前向きに自分にできることをしている」(大野更紗)
「明日を憂うことなく、今を楽しみ、1日1日を精一杯生きている」(大野更紗)
- 参考:
ロリー・ヘギ著
『アシュリーが教えてくれたこと』
(扶桑社、2009)
大野更紗著
『困ってるひと』
(ポプラ社、2012)
また、2人はけっして孤独ではなく、誰かに助けられて生きていて、自分も誰かの役に立ちたいと願い、実践しているということにも注目したい。
過酷と思える環境にありながらも、自分の「心の持ちよう」や「あり方」次第で「幸せ」を感じて生きていけるという考えだ。少し理想論にも聞こえるが、彼女たちは実際そう生きているのだ。
ソニア・リュボミアスキーの『幸せがずっと続く12の行動習慣』(日本実業出版社、2012)という本がある。本には、幸福度を高めるための要因の40%は、私たちの日々の「意図的な行動」にあり、自分でコントロールできるとある。
「日々」「意図的」に行動し続けるという状態を可能にするのは、本人が「どうありたいか」「どうあり続けたいか」という意志であると説明されている。
グループメンバーで本の中の12の行動習慣を続けてみようということになり、1人1つずつ実行してみた。たとえば、「感謝の気持ちを表す」。周りの人にとりあえず「ありがとう」と言ってみた。幸せになれたのか? 頭では自身の意図的な行動が幸福度を高められるとわかっているものの、腑に落ちない。何が足りないのだろう。なぜなのだろう?
『幸せがずっと続く12の行動習慣』。この本はアメリカ人が書いたものだ。もしかしたら、日本人には、また違う考え方があるかもしれない。日本の場合はどうだろうか?
たとえば、内山節著『時間についての十二章』(岩波書店、2011)の中で、山里に暮らす人々は、縦軸の時間と横軸の時間という2つの時間のなかを生きていると述べられている。日本文化の時間だ。
縦軸の時間は、過去、現在、未来が縦の線で結ばれている。始まりと終わりがあり、けっして戻ってくることのない一直線の時間である。
横軸の時間は、円環の回転運動をしている。つまり「円環の時間」である。1年の時間が過ぎ去ったのではなく、去年の春が帰ってくる。自然と強く結びついた暮らしと労働を営む「人と人の世界」「人と自然の世界」であるといえる。自然と結びついた暮らしであるからこそ、収穫に関しても、必要な分だけ採取する。根こそぎ奪わない、共生的、助け合い、分け合うという考え方が基本となる。人も変わらない、一生働き、人が自然に合わせることにより自然と社会がつながりを持ち続けている。
円環してきた時間とともに生きる村人は、1年前と同じ世界に回帰する。この縦軸と横軸の時間という観点から、循環が生まれる。その豊かな関係性の中に幸福が静かに訪れる。
つまり、「循環が発生している状態であれば、幸福を感じる」のではないか。そこに生命の流れがあるからだ。
- 参考:
ソニア・リュボミアスキー著
『幸せがずっと続く12の行動習慣』
(日本実業出版社、2012)
内山節著
『時間についての十二章』
( 岩波書店、2011)
関係性が絶たれないあり方
アシュリー・ヘギさんと大野更紗さんのことを再度考える。2人は、他との「関係が絶たれないあり方」であるため、幸福を感じているのではないのであろうか。
病気のときは、誰でも家族、医師や看護師等の病院関係者に助けてもらわないとどうにもならない。つまり、1人では生きていけないと感じ、関係性のありがたみがわかるようになる。その思いは極限の中から生まれてくる。もし、家族に見捨てられていたら、あるいは周囲に経済的余裕がなければ、そもそも2人は「幸福の循環」からはじき出されていたかもしれない。
感謝の念は、極限の関係性のなかから生まれ、やがて一般化される。さらにこの気持ちがまた周りの誰かを助けたい、役に立ちたいと思いにつながり、周りに循環していくこととなるのではないか。
「幸せ」とは、周りとの循環の関係性のなかにのみ生みだされてくるものではないであろうか。
循環を親子関係で考えてみる。私たちは、両親が出会わなければこの世に生まれてこなかった。両親は祖父母が出会わなければ生まれなかった、また曾祖父母が出会わなければ……といった幾多の組み合わせの可能性がある「つながり」の中で、私たちは両親から生まれた。絡み合った奇跡の「つながり」の中から自身が存在していることを認識することで、その関係性の中で、改めて家族への感謝、ありがたみ、幸せを感じることができた。
東日本大震災後でも、家族を失い死線をさまよいながらも、どこかで家族がつながっていると思い、懸命に生きている人たちの姿にも、そういう「つながり」の深い意味が示されているのではないか。
また、エネルギーについても同様である。私たちは電気、水、ガス、食糧をただ消費しているだけではない。リサイクルという円環を考えて使用すれば、もっと大切に、感謝をして使うことができるのではないだろうか。水は貯めて使用する、使わない電気、ガスは消す、再利用できるエネルギーはそちらを利用する。私たちは、自然の循環の限度を超えて消費してしまい、幸福を見失っていないだろうか。
ちなみにメンバーの1人はこの授業の発表後に、暖房を電気ヒーターから湯たんぽに変更した。水を温め、その温度で暖をとり、冷たくなればまた水を温める。少し手間はかかるが、循環である。そして湯たんぽを使うことで少し幸せを感じたという。
近年、法令の成立など、循環型社会を推奨する動きが進んできている。有限である資源を効率的に利用するとともに再生産を行って、持続可能な形で循環させながら利用していく社会である。この流れは、私たちの「幸福」のあり方を具体的に示している。
始まりも終わりもない円環を生きる
私たち自身の身体も循環する。
直線的な縦軸の時間では、始まりがあり、終わりがある。生まれて、死ぬ。今日はもう2度とこないという考え方である。
しかし、もしも私たちの身体も季節と同じように永遠の円環運動であり、始まりと終わりがない、と仮定したら、死と再生を含んだ死生観を持ちながら、私たちはもっと穏やかに、幸せに生きることができるのではないか。身体を大切にする、周りの人を思いやる、自然と結びつき、社会とつながりを持ち続ける。けっして、よりお金があれば幸せ、より若く健康であれば幸せという考え方ではなく、1年前と同じであることを循環とみなし、よしとする。
誰かとつながることで摩擦も生まれる。けれども、何の「つながり」もない人生を想像できるだろうか。親と子、夫と妻、同僚、友人同士の「つながり」を前向きにとらえることで、より豊かな心でいられるのではないだろうか。