どう見たか
理解はできても、共感はできない幸福
幸福とはなにか。
そう問われて、あなたはどんなシーンを思い浮かべるだろう。
愛猫家は言う。
「1日の終わりに、飼い猫を抱っこして、ベッドに向かうとき、とても幸せを感じる」
バイク乗りは言う。
「急カーブを、スピードを上げて曲がる瞬間。そのスリルがたまらなく幸福だ」
いずれの例にしても、あなたは「愛猫家にとっての幸福」「バイク乗りにとっての幸福」として、「理解」することはできるであろう。
しかし、猫アレルギーの私にとっては、「猫を抱っこしてベッドに向かう」なんて考えられないし、うちの母親が「バイク乗りの幸福」の話を聞いたら卒倒してしまう。
「理解」はできる。しかし、いずれも到底「共感」はできない幸福である。
「一体感」という幸福
幸福を「理解」と「共感」で説明しようとすると、どうしても「幸福の形は、人それぞれである」といった、きわめて平凡な結論で終始してしまう。それでは面白くない。
「どんな幸福も説明できるような切り口はないだろうか?」
そんな問いを持って、私たちはおよそ学校の授業とは思えない熱の入れようで議論を重ねた。
それにしても、幸福とは多様である。
- 「誰かとわかり合えたとき」
- 「お風呂にゆっくり浸かっているとき」
- 「プラモデルを作っているとき」
- 「ダンスの発表会で優勝したとき」
- 「バレーボールで絶対にとれそうもないボールをスーパーレシーブできたとき」
次第にわかってきた共通点は、「人と人」との間に生まれる幸福だけではなく、「自分」と「モノ」や「場所」との間に生まれる幸福もあるということだ。
そしてその対象に没入するような感覚。
まるで、自分と対象との境目が薄れ、「一体」となるような感覚。
すなわち「一体感」こそが幸福を感じさせているのではなかろうか。
話し合いを深めていくなかで、さらに「一体感」には2つの性質があることがわかってきた。
現象学者のマックス・シェーラー「同情の本質と諸形式」(『シェーラー著作集8』、白水社、1977)によると、一体感には、
①自己の中に、他者を「取り込んだ」一体感、②他者の中に、自己が「取り込まれた」一体感があるという。
「幸福は一体感というキーワードで説明することができる。そして、一体感には、『取り込む』『取り込まれる』『取り込みも取り込まれもしない』ものがある」
私たちの話し合いは順調であった。なにか「幸福の新しい定義」のようなものを発見できるのではないかというワクワク感があった。その気持ちをさらに増幅させるかのように、中間発表でもなかなかの手応えであった。さまざまな観点から質問が飛び出し、先生や専門家の方からも建設的なアドバイスと期待の言葉をもらったのだ。
- 参考:
マックス・シェーラー
(1874/8/22 - 1928/5/19)マックス・シェーラー著
「同情の本質と諸形式」
(『シェーラー著作集8』
白水社、1977)