どう見たか
他人の不幸を顧みない身勝手な「幸せ」は成立するの?
みなさんは、どのようなときに幸福を感じますか?
たとえば、生活の中のささやかなコトの喜びや、なにかに「共感」できたとき。
実は、これらは、私たちが簡単なアンケート調査をしたときに多かった答えです。
そこで私たちはもう少し議論を重ねてみました。
本人が幸せと感じてさえいれば、それで幸せと言える?
「共感」できない幸せは、幸せじゃないの?
たとえば、人の道からはずれたと言われる誰かを愛してしまったら?
新興宗教にはまってしまったら?
自分は幸せを感じるかもしれませんが、自分のまわりはそれに反し、不幸になるかもしれません。
幸福のステレオタイプ
そもそも「幸福」とは誰が決めるのでしょうか。
「幸福」であることを決めるのが自分であるとした場合、他人の不幸を顧みない身勝手な「幸せ」が成立しうることになり、「幸せ」は負の側面を持つことになってしまいます。
このような、自分本意で決めた幸せが存在する反面、書店に行くと「こうすれば幸せになれる」といった、「HOW TO本」が溢れていることにも、私たちは違和感を感じます。
これらは、前述と相反する他者の決めた「幸せ」の押し付けであって、幸せであることを強いているようにも感じたのです。
私たちは、幸せを煽られているのでは?「幸福のステレオタイプ(紋切り型、固定観念)」に縛られているのかもしれない、と考えるようになっていったのです。
あなたは幸福になるべく煽られ、「幸福のステレオタイプ」に縛られていませんか?
これが私たちの問いです。
この答えを探るべく、私たちの生活に関わりの深い「歴史」、「教育」、「経済」といった側面から、「幸福のステレオタイプ」とはなにかに迫っていきたいと思います。
「幸福の歴史」(ピーター・N・スターンズ著「ハーバード・ビジネス・レビュー」2012年5月号、ダイヤモンド社)や、片瀬五郎氏の「幸福の歴史年表」によれば、17世紀までのヨーロッパでは、悲観的な人生観や表情がいわば「幸福のステレオタイプ」とされていました。それは、キリスト教的背景から、「罪の意識を持つ者」にこそ幸福は訪れると考えられていたからです。
「ハーバード・ビジネス・レビュー」
2012年5月号
特集:幸福の戦略
(ダイヤモンド社)
しかし18世紀末、アメリカ合衆国の独立とともに、「幸福のステレオタイプ」は変化しました。アメリカでは、国家をあげて幸福を追求することこそが国のアイデンティティであり、悲観的な表情よりも、ストレートな「笑顔」が幸福の象徴としてステレオタイプ化していったのです。
笑うことが「幸福のステレオタイプ」として広がった理由のひとつとして、コンシューマリズム(消費者中心主義)の成立もあると言われています。大量生産・大量消費の時代を背景に、あらゆる広告で、商品と幸福を結びつけた表現が広まりました。
その代表例が、みなさんもよくご存知の、黄色地に笑顔がかわいい「スマイリー・フェイス」です。このマークは、アメリカの広告会社経営のハーベイ・ポールが爆発的にヒットさせ、10年たらずで、そのライセンス収入は5000万ドルを突破したといいます。

日本人の幸福はどこから来たか?
次に、日本での事例を見てみましょう。
日本人にとって深い関わりがある義務教育から幸福を見ていきます。明治維新後の1868年、政府によって文部省が設立されたことにより、義務教育の歴史が始まります。その後、政府は、先進諸外国と肩を並べることを目指し、強い国家づくりのために貢献できる人材の育成を課題として、すべての国民に教育を行き渡らせることに力を入れます。このような教育の歴史の中で、1945年、日本の無条件降伏のもとに戦争が終結した翌年、日本国憲法の中で教育にふれた条文の中に初めて「幸福」が登場するのです。
- 第3章 国民の権利及び義務〔個人の尊重と公共の福祉〕
- 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
- 学校教育法 〔義務教育〕
- 第21条
健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。
広告に見られる幸福の姿
戦後初めて憲法に明記された「幸福」は、アメリカと同様、経済成長とコンシューマリズムによって「ステレオタイプ」として浸透していきます。
1960年代は、「モノ」が幸せの象徴でした。3種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)、3C(カラーテレビ・クーラー・自動車)の登場……。「モノがあることが幸せ」という考えが世の中に溢れ、人々もまた、モノに囲まれる豊かな幸せを求めていたと思われます。
でも1970年代になると、まわりを見渡しながらゆっくり楽しむ良さを訴求する広告が増えていきます。1960年代の代名詞でもあった「モーレツ!」も、70年代では「モーレツからビューティフルへ」というフレーズにかわり、世の中の幸せのとらえ方に変化が読み取れます。
80年代では、女性の社会進出の増加にともない、自立的な女性像が理想の「あるべき姿」として提示され、女性の消費をターゲットに据えた広告が作られていきます。このようにそれぞれの時代によって広告に表現される「幸せ」の形は変化しています。そこには、戦後の日本で、多くの人々が求める「幸福」の形が現れています。
- 参考:
60年代
「よろこびの日に
<日立>を贈る」
(日立)
80年代
「Are you ready?」
(東京スタイル)
これからどうするのか
「煽られる」ことと「縛られる」ことは違う
教育、経済(広告)の歴史をたどっていくと、明治維新以降の日本は、国家の発展を目的として、政府や企業が発信した「豊かになることが幸せ」という、「幸福のステレオタイプ」に導かれていたことがわかります。
つまり私たちは、「幸福のステレオタイプ」に縛られていたといえます。
しかし「ステレオタイプ」に「縛られる」ということは、私たちに対して幸せになることを「煽るもの」ではありません。
「煽られる」ことと「縛られる」ことの違い。
「煽られる」というのは、「誰もが認める幸福を手に入れなくては、私は幸せになれないのではないか?」という不安の助長です。私たちは無意識のうちに、他の誰かの「幸福のステレオタイプ」に煽られているのかもしれません。
それに対して、「縛られる」というのはなにものかにとらわれている状態ですが、もし私たち自らがその「ステレオタイプ」を選択し、それに「幸せ」を感じられるのなら、「幸福のステレオタイプ」は、けっして悪いことではなく、私たちを幸せにしてくれているのではないでしょうか。
「幸福のステレオタイプ」はひとつではありません
さらに重要なことは、私が選ぶ「幸福のステレオタイプ」と他の誰かの「幸福のステレオタイプ」は同じではないということです。それを比べる必要はありません。
私と誰かの「幸福のステレオタイプ」を比べて、それぞれの幸福の枠に入らないからといって、他方を「幸せではない」と決めることはできません。それは身勝手な「幸福」の負の判断ではないでしょうか。
「幸福のステレオタイプ」はひとつではありません。
大切なのは、全員が同じ幸せに向かう必要がないということを認識することです。
一人ひとりが感じる幸せを、すべての人と共感することはできません。でも、「そんな幸福もあるよね」と認めることはできます。非常に例外的な例として、映画『悪人』の中の「殺人犯を好きになる」主人公も、大きな負の側面を持ってはいるものの、またひとつの「幸福のステレオタイプ」といえるのです。
私が、他の誰かの「幸福のステレオタイプ」を認めること。
そして、他の誰かも私の選ぶ「幸福のステレオタイプ」を認めること。
このことが成立すれば、「幸福のステレオタイプに縛られること」は、むしろ「日常のなかの知恵」として、私たちを幸せにしてくれる選択であるのです。