このプロジェクトの主旨

青山学院大学院生を中心に、学習コミュニティの生成の意味とその仕組みを「互恵的な学習」を通じて形成してアウトプットすることを目的にしています。その成果物とプロセス(ジャーニーマップ)を「作品」として扱い、社会に問いかけをします。以下は、同学授業担当の苅宿俊文教授、同授業に参加したフィルムアート社津田広志編集長がこのプロジェクト全体を振り返ったコメントです。

「学習コミュニティデザイン」とは

「異」とのコミュニティ形成を通じた学び

社会人が学ぶということを問い直す動きが各所に立ち上がっている。まず、社会人が大学院で学ぶということでは、明確な到達目標を持っているMBAや公認会計士、弁護士等の専門職をめざしていくことがここ20年注目され、多くの大学で取り組まれている。
しかし、社会人が学ぶことはそれだけではない。もっと細分化され、複雑な組織や現場での出来事をどのように見ることができるのか。その現場の捉え方を考えていくための大学院も見受けられるようになってきた。その1つに「学びをまなぶ大学院」を標榜した青山学院大学大学院社会情報学研究科ヒューマンイノベーションコース(以下HIコース)がある。

そして、HIコースの後期科目に「学習コミュニティデザイン特論」がある。
この科目は、大学院における等質的な学習実践に疑義を提示するために、異年齢、異分野の人と交流することを前提としたカリキュラムデザインの授業である。HIコースは、社会人対応の大学院を標榜し、入学者の8割以上が社会人の大学院である。学際的な主題に取り組んでいるために、多様な人材が修学している。そのため、知識や技能を一方的に伝達していく場面として有効な等質的な学習環境よりも、吟味をしたり、問い返したりする批判的で生産的な学習環境が望ましく、それを実現するために、修学者の多様性を生かしていくカリキュラムデザインが求められている。

「学習コミュニティデザイン特論」のカリキュラムデザインのコンセプトは、学習を広義に捉え、「異」とのコミュニティ形成を通した学び、コミュニティによる知的生産への貢献を通した学びをデザインしていく試みである。そして、カリキュラムデザインに埋め込まれた狙いは、参加者が互いに他者へ表出することを通した自己理解と混乱にある――つまり「異」のギャップを確認していき、それを受容する可能性と、「受け入れ難さ」の必然性を通して自己を対象化していくという構造を持っている。

単に知識を量的に獲得していくということだけではなく、自らの学習コミュニティにおける意味生成の結果だけでもない。「学習コミュニティデザイン特論」とは、それらすべてのプロセスを編集していくことで自らの学習の混乱と生成の円環の履歴を可視化していく科目である。

学部生、院生、編集デザインのプロ、3階層の授業

これらのカリキュラムデザインのコンセプトを実現していくための学習環境としては、修士1年の院生7名、それに、ゲストとして学部3年生が7名、この2つの学び手に加え、編集デザインという切り口で出版社フィルムアート社の編集者や、デザイン会社コンセントのデザイナーが7名参加している。この合わせて21名の3つの階層が混ざり合ってグループをつくり、コミュニティを通して、学んだこと、考えたことを共有していくという学習コミュニティを準備した。さらに苅宿研究室から3名の研究員がファシリテータとして参加し、毎時間の授業記録を撮り、Webを通した再学習のシステムを通じて、情報科学研究センターのスタッフが3名でカメラ2台を常時回していった。

授業は、HIコースで取り入れている隔週2時限連続という方式で、実施日は18時30分から21時40分まで徹底したディスカッションに取り組むことを基本とした。授業外の時間の話し合いについては、SNS機能を持った「サイボウズLive」という無料ウェブサービスを活用した。

自己を問い直し、建設的な知的生産スタイルをつくる

2012年度の授業テーマは、「幸福とはなにか」である。大学院だからといってここですぐにアランの「幸福論」が出てくるのではなく、自分ごととしての「幸福=しあわせ」であり、リアルな幸福感の問い直しである。正解のない問いにどのように自分が迫っていけるのか。コミュニティを通して考えることによって、なにが生成されていくのか。それを味わってほしいという願いが、カリキュラムデザインの底流に流れているのである。

社会人・学生・編集デザインのプロという3つの階層が、授業を通してコミュニティを形成していくことによって、コミュニティ形成が単なる「なかよしクラブ」で終わることなく、研究活動におけるもっとも重要な視座である「批判的な視点」つまり「自己の対象化」が学習者の内に生成されることが起こっていった。
それはすなわち、他者とのコミュニケーションが「自らの文脈や背景を、他者と同化させる」こと、つまり仲良くなることを前提としているのではなく、「他人と自分はもともと異なっている」ことを前提にし、その相違点と共通点を明らかにしながら、その上で新しい価値づけとして意味を生成していくということだ。今回の試みは、そんな新しい建設的な知的生産のスタイルをつくるという期待に応えるものだった。
根源的な問い直しとは、身体的なものである。自分が引けない一線があるときは、その語りも身構えていることがある。研究的な合意形成を模索しながら、問いをつくり直していくプロセス、そして他者とのかかわりを通して、自己の問い直しに挑戦していった記録が、このウェブサイトには残っている。

「知を学ぶ」から、「知をつくる」へ

「知」のメディアをつくろう

学生は「知を学ぶ」人、知識を吸収し「インプット」する人と言われます。実際、学生には古典から現代理論までどん欲にインプットする力が求められます。しかし同時に「自分がなにを理解できたか」、さらに「受け手になにを訴えたいか」を本当に知るためには、話し合い、ライティングし、デザインする、外向きの、つまり「アウトプット」も必要になります。たとえば、もし役者が衆目にさらされず舞台裏でただ脚本を読み続けているとしたら―—その人は芝居を本当に理解できるでしょうか? 舞台の上で演じて=アウトプットして、観客の拍手、あるいはブーイングを受けることで、初めて「わかる」ものがあります。

この観客を感動させるには、価値を発見し「知をつくる」こと、つまり「驚き」を与える力が必要です。単なる説明や共感ではなく「響く」ことが必要なのです。いわば「著者」であることが、学生に求められました。プロの「著者」は、1人でも多角的な視点でものを考えることができます。しかし学生にそれを求めるのは無理があります。そこで協同学習により、1人ひとりが違う角度で意見を言い、多角的視点を持ち、力を合わせボトムアップ型の「知」をつくっていく道を探りました。

学生たちは、本当に真摯に1つのテーマ(「幸福」)について話し合いました。協同学習によって3チームがいい意味で競い合い、私たちAZグループが「観客」として介入したことも高揚感につながったと思います。まさに舞台の上に立つ俳優のような輝きと危うさがありました。

今回の授業を終えて、学生からは、「正解がないことを初めて考えた」「持続的に考える難しさを知った」「協同で考えると、同じ言葉を使ってもまったく違う意味があることを知った」といった感想が寄せられました。この感想は、学生が社会で働き出したときに発する言葉と似ています。社会には明確な正解がありません。まったく思考方法が違う者同士が話し合いを重ね、なんとか成果を出していく世界です。学生の感想は、大学内でつくられた「知」が、社会に通用する「知」へ成長していくさまを物語っているかのようでした。

編集デザインとはなにか

このプロジェクトで用いられた「編集デザイン」とは、「知」を発見→構成→アウトプットする方法です。具体的には、学生がどのような考え方を持っているかを私たちは理解し、その思考のユニークさを強調しながら表現を支援しました。また「表現の弱み」(安全無害で響かない表現や、論理的に切れが悪い箇所)を改める提案もしました。さらにビジュアル表現、特にサイトやジャーニーマップのデザインによって、各班の意見を感性的/視覚的な形に落とし込み、ユーザーの理解を深めようとしました。

従来、学生の「知」は、論文という形で大学の内部に収まっていました。しかし今回のアウトプットによって、学生がつくりあげた「知」は、大学の外へ広がりました。観客(他者)の目線を感じることによって、学生の表現(文体、構成、デザイン)は大きく変わりました。学生は、自分たち以外の見知らぬ他者を認め、ハイコンテクスト(知り合い同士の空気/文脈を読む高度の能力)をさらに「超えていく表現」をしたと思います。今回の試みは、単に学生がウェブサイトをつくったという次元の話ではないのです。まさに外へ、大げさに言えば、多種の価値観がときに激しく衝突する「世界」へ飛び出す行為であり、現在の世界潮流が求める思考そのものなのです。

また今回、多くの社会人院生が参加しています。それは社会人が「編集デザイン」を生かし、新しい「知」を社会のなかでつくりあげていく時代の大きな可能性を示しているのではないでしょうか。「知を学ぶ」だけでなく、「知をつくる」時代へ。最後に、学生のみなさんの果てしない試行錯誤の結実に、大きな敬意を表したいと思います。